達磨寺(だるまじ)
□所在地 奈良県北葛城郡王寺町本町2-1
□山号 片岡山
□宗旨 臨済宗
□宗派 南禅寺派
□本尊 千手観音・達磨禅師・聖徳太子
□創建年 推古天皇21年(613年)
□開基 勝月房慶政
□正式名 片岡山達磨寺
□文化財 絹本着色涅槃図、木造聖徳太子坐像、木造達磨坐像等多数
□山号 片岡山
□宗旨 臨済宗
□宗派 南禅寺派
□本尊 千手観音・達磨禅師・聖徳太子
□創建年 推古天皇21年(613年)
□開基 勝月房慶政
□正式名 片岡山達磨寺
□文化財 絹本着色涅槃図、木造聖徳太子坐像、木造達磨坐像等多数
【 歴史 】
この寺の創建については、推古天皇21年613年の冬、聖徳太子が片岡山で飢えていた異人に衣食を
施したという片岡山飢人伝説にからめて語られる。
その後は、衰退と中興が繰り返され、江戸時代には幕府から30石が与えられた。
この寺の創建については、推古天皇21年613年の冬、聖徳太子が片岡山で飢えていた異人に衣食を
施したという片岡山飢人伝説にからめて語られる。
その後は、衰退と中興が繰り返され、江戸時代には幕府から30石が与えられた。
片岡山飢人伝説とは、『日本書紀』の推古天皇21年(613年)12月条や『元亨釈書』に見える次のような話である。聖徳太子こと厩戸皇子が片岡山を通りかかったところ、飢えて瀕死の異人に出会った。
太子はその異人に当座の寒さと飢えをしのぐため、食物と自分の衣服とを与えた。翌日、使いをやって異人の様子を見に行かせたところ、すでに息絶えていたので、丁重に葬った。
それからしばらくして墓の様子を見に行かせると、死体は消えており、衣服だけがきちんとたたまれて、棺の上に置かれていた。これを知った里人は、あの異人は達磨禅師の生まれ変わりに相違ないと言い、聖徳太子が自ら刻んだ達磨像を祀ったのが達磨寺の始まりであるという。
太子はその異人に当座の寒さと飢えをしのぐため、食物と自分の衣服とを与えた。翌日、使いをやって異人の様子を見に行かせたところ、すでに息絶えていたので、丁重に葬った。
それからしばらくして墓の様子を見に行かせると、死体は消えており、衣服だけがきちんとたたまれて、棺の上に置かれていた。これを知った里人は、あの異人は達磨禅師の生まれ変わりに相違ないと言い、聖徳太子が自ら刻んだ達磨像を祀ったのが達磨寺の始まりであるという。
松永久秀の墓達磨寺の境内には達磨寺1号墳・2号墳・3号墳と称される3基の古墳(6世紀頃の築造)が存在し、このうちの3号墳の上に本堂が建てられている。この古墳は平安時代には聖徳太子ゆかりの達磨禅師の塚であると信じられていたようである。寺院としての形態が整うのは鎌倉時代以後と思われる。
境内には松永久秀の墓がある。
【 文化財 】
重要文化財
絹本着色涅槃図
木造聖徳太子坐像 - 建治3年(1277年)作。
木造達磨坐像 - 永享2年(1430年)作。水墨画家として著名な周文が彩色を担当している。
達磨寺中興記石幢 附:石碑(嘉吉二年(1442年)銘)、青磁香炉、大甕2口
本堂背後に立つ高さ185cmの八角石柱。文安5年(1448年)建立。各面に達磨寺の由緒が刻まれている。
附指定の3点は2000年に本堂改築工事に伴い石幢を移動した際、地下から検出されたもの。
絹本着色涅槃図
木造聖徳太子坐像 - 建治3年(1277年)作。
木造達磨坐像 - 永享2年(1430年)作。水墨画家として著名な周文が彩色を担当している。
達磨寺中興記石幢 附:石碑(嘉吉二年(1442年)銘)、青磁香炉、大甕2口
本堂背後に立つ高さ185cmの八角石柱。文安5年(1448年)建立。各面に達磨寺の由緒が刻まれている。
附指定の3点は2000年に本堂改築工事に伴い石幢を移動した際、地下から検出されたもの。
王寺町指定文化財
木造千手観音像 - 室町時代作。
達磨寺石塔埋納遺構出土品 - 鎌倉時代。平成14年(2002年)に本堂の建て替えにともなう、発掘調査を行った際に出土。石製宝篋印塔が本堂基壇の下の小石室に入っていた。その石製宝篋印塔の中には、土師質の合子が入っており、さらにその中には水晶製五輪塔型舎利容器が入っていた。
さらにその舎利容器の中には、非常に小型の石英片岩の舎利が入っているという何重もの入れ子構造をとっていた。13世紀前半に達磨寺3号墳が整備され、寺院として開基するときに納められたと考えられている。
電車でのアクセス
JR 大和路線 王寺駅 → 奈良交通バス 達磨寺前下車 → 徒歩約10分
木造千手観音像 - 室町時代作。
達磨寺石塔埋納遺構出土品 - 鎌倉時代。平成14年(2002年)に本堂の建て替えにともなう、発掘調査を行った際に出土。石製宝篋印塔が本堂基壇の下の小石室に入っていた。その石製宝篋印塔の中には、土師質の合子が入っており、さらにその中には水晶製五輪塔型舎利容器が入っていた。
さらにその舎利容器の中には、非常に小型の石英片岩の舎利が入っているという何重もの入れ子構造をとっていた。13世紀前半に達磨寺3号墳が整備され、寺院として開基するときに納められたと考えられている。
【 交通アクセス 】
JR 大和路線 王寺駅 → 奈良交通バス 達磨寺前下車 → 徒歩約10分
松永久秀の墓
悪名高い武将で知られているが、久秀の残した功績は多い。
爆死した説がある。
片岡八郎の墓
片岡八郎公(第十七代)の墓
利となり、紀州熊野に逃れようと道を大和十津川にとったところ、途中、玉置荘司盛高が待ち構えている
と聞き、八郎は八郎は矢田彦七と二人で、宮に見方するよう説得したが盛高は聞き入れず、逆に軍備を厳
重にする始末であった。
十津川村玉置山花折塚付近で危機を迫っていることを急いで宮に伝えようと引き返そうとすると追手が
五、六十人迫ってきた。敵の中に斬って入り二、三人を倒すが、矢を撃たれて深傷を負ってしまった八郎
は、宮への伝言を彦七に託して、敵のまっただ中に斬り込み桜花の散るように勇ましく戦死した。
時は元禄二年(1332年)初夏のことであった。八郎の忠義の死によって大塔宮は危機を脱すること
ができたのである。
大正四年(1915年)11月10日、国家につくした者として正五位が贈られた。
片岡春利公(第二十七代)の墓
片岡新助春利は、戦国時代末期、片岡城(上牧町下牧)の城主で、永禄十二年(1569年)松永父子
が攻めてきたとき、よく戦って片岡城を守った。
【現地説明版より】
【現地説明版より】
雪丸塚
雪丸は人の言葉が理解できたといい、達磨廟(達磨寺3号墳本道下に所在)を守るために遺骸を本堂東
北隅に葬るよう遺言して世を去ったという。
所と伝えられる。
本堂角付近にあり、横に伏せているように見えるのが達磨石で、そこから約十メートルのところにある
のが太子石とされる。
【現地説明版より】
【現地説明版より】
王寺小学校の向かいに位置する達磨寺。戦国時代に興味を持つ私は、松永久秀や、片岡春利のお墓があ
る事を知り行ってみる事にした。
行ってみてビックリ! あの松永久秀の墓が、細々とあり。格下の片岡春利の墓が堂々と建てられてい
た。 松永久秀は、河内から大和に侵攻しほぼ大和を収めた武将である。
ある。 達磨寺は、道路拡張整備で東側へ少し移転し真新しくなってしまった。
隣には片岡の里保育所があり、いつも子供たちの元気な声が響くお寺です。