瀬田の唐橋


 瀬田の唐橋(せたのからはし)は、滋賀県大津市瀬田の瀬田川にかかる橋。
 全長260m。滋賀県道2号大津能登川長浜線がこの橋を渡る。
 勢多の唐橋とも書き、瀬田の長橋とも言われる。

 宇治橋、山崎橋とならんで日本三名橋日本三古橋の一つとされ、歌川広重の『近江八景』のうち『瀬田夕照』はこの橋の風景を描いたものである。
 また、日本の道100選にも選ばれている。

□歴史と伝説
 琵琶湖から注ぎ出る川は瀬田川しかなく、京都防衛上の重要地であったことから、古来より「唐橋を制する者は天下を制す」と言われた。 本格的には近江大津宮遷都の時に架橋されたと考えられるが、当時は現在の位置より65m南の龍王社・雲住寺を東端としていた。

《古代》
 最初に架けられた橋は両岸に生えていた大きな藤の木を利用したつり橋で、景行天皇(日本武尊の父)の時代に丸木舟を横に何艘も並べ、藤や葛のツタで絡めた搦橋が架けられた。
 神功皇后の摂政元年、香坂皇子と忍熊皇子が反乱。忍熊皇子神功皇后(応神天皇の母)の家来である武内宿禰の軍に攻められ、瀬田で自害したという。(「日本書紀」 気長足姫尊 神功皇后) 壬申の乱 671年、大友皇子大海人皇子の最後の決戦場となった。
 大友皇子方が、橋板をはずして大海人皇子方を待ち受けたが、突破されて滅んだ。
 御霊神社の主祭神大友皇子である。(「日本書紀」 天武天皇 上 元年七月)文献上の初見である。
 恵美押勝の乱藤原仲麻呂の乱)764年、宇治から近江を取ろうとした恵美押勝に対して、孝謙上皇方は田原道(関津遺跡)を通って瀬田の唐橋に先回り。これを焼く。
 押勝高島郡に走り、滅びた。 (「続日本紀」 淳仁天皇 天平宝字八年九月)

平安時代
 869年(貞観11年)12月4日に火事。(「日本三代実録」巻十六)
 871年(貞観13年)11月4日に火事。(「日本三代実録」巻二九)
 藤原秀郷の大ムカデ退治伝説として有名だが、背景には平将門の乱平定があるといわれる。
 治承・寿永の内乱(源平合戦)1183年(寿永元年)に源義仲対平家、1184年(寿永2年)に源義経
義仲の合戦があった際に、源範頼が攻める瀬田橋の橋板をはずして守っていたのが今井四郎兼平。
 宇治で敗れた義仲と合流し、粟津で敗死。  (「平家物語」)

《鎌倉~室町時代
 承久の乱 1221年(承久3年)、後鳥羽上皇の京軍(山田次郎重忠が率いる比叡山の僧兵三百騎)と北条義時の弟・時房率いる鎌倉幕府軍が瀬田川を挟んで交戦。
 建武の戦い 1336年(建武4年)足利直義の率いる足利軍と朝廷軍が瀬田川を挟んで交戦。
 本能寺の変~天王山の戦い 唐橋を現在の位置に移したのは織田信長。架橋奉行は瀬田城主の山岡景隆で、90日で完成させたという。明智光秀本能寺の変織田信長を倒した後、安土を攻めようと唐橋まできたが山岡景隆は屈せず、唐橋と瀬田城を焼いた。

《江戸時代》
 膳所藩(本多家)が管理。東海道がここを通った。

 木造の橋が現在のコンクリート製になったのは1979年(昭和54年)のことであるが、橋の特徴である擬宝珠は歴代受け継がれており、「文政」「明治」などの銘が入ったものも現存する。

                   【フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)より抜粋】

俵藤太秀郷むかで退治
イメージ 7



イメージ 2



イメージ 3


架替略歴
イメージ 4


瀬田の唐橋の全景
イメージ 5



イメージ 6


日本の道百選
イメージ 8


 琵琶湖から注ぎ出る川は瀬田川しかなく、京都防衛上の重要地であったことから、古来より「唐橋を制する者は天下を制す」と言われるほどの道だったようです。



 ちょっと息子のバイクを探しに、滋賀県草津まで愛車(黒駒)に乗ってひとっ走りしてきました。

 絶好の秋晴れ。。。 普段は平日しか乗らないもんだから、ライダーとすれ違うだけで興奮しちゃいま

す。 

 一人ぼっちライダーは、たまには大勢のライダーとつるんで走ってみたいと思うのです。


 バイクの商談を終わらせての帰り道、ふと目にしたのが『瀬田の唐橋』。

 『壬申の乱』の激戦地。 なにか遺跡がないかと思い立ち寄ったが、何も見つけることができなかっ

た。 でもでも、それ以外にも伝説や、いろいろな出来事があった重要な橋だったんですね。

 何事も、足を運んでみると発見があるもんなんですね。




■撮影日  2008年10月13日(月) 体育の日
■所在地  滋賀県大津市唐橋町、瀬田一丁目
■機材   EOS-40D EF-S 17-85mm F4-5.6 IS USM