内山永久寺跡の染井吉野
湖面に映る染井吉野
かつては浄土式回遊庭園を中心に、本堂、灌頂堂、八角多宝塔、三重塔など最盛期には50以上の堂塔が並ぶ大伽藍を誇り、江戸時代には971石の朱印地を与えられていた。なおこの時代に上乗院が寺主となって興福寺の支配下から離れ、真言宗寺院となっている。
また、当寺は修験道当山派との関わりも深く、当山三十六正大先達衆を構成する一寺として、重要な役割を果たしており、これは修験道が明治の神仏分離令で禁止された結果、続く廃仏毀釈で当寺が致命的な打撃を被る一因となった。
明治に入って廃仏毀釈の嵐の中で寺領を没収され、経営基盤を奪われた当寺は廃寺となって僧侶は還俗し、石上神宮の神官となった。更に、壮麗を極めた堂宇や什宝はことごとく徹底した破壊と略取の対象となった。この際流出した仏像・仏画・経典等はいずれも製作当時の工芸技術の精華と言うべき優品揃いであったことが知られている。海外に流出した宝物の内、ベルリン民俗学博物館が購入した真然筆と伝えられる真言八祖像などは第二次世界大戦末期のベルリン攻防戦で烏有に帰した。しかし、日本国内に残存した宝物の大半が、現在重要文化財・国宝指定を受けていることは、当寺の得ていた富がいかに巨大であったかを物語るものである。
現在では当寺の敷地の大半は農地となり、本堂池と萱御所跡の碑が往時をしのぶだけである。
松尾芭蕉句碑
うち山やとざましらずの花ざかり
この句碑は、松尾芭蕉(1644-1694)が江戸へ下る以前、まだ出生地の伊賀上野に住んで、「宗房」と号していた頃の作品である。いつの頃にこの地を訪れて作られたか、それは明らかではないが、寛文十年(1670)六月頃刊行の『大和順礼』(岡村正辰遍)に収められているところから、この年以前、すなわち二十三.四才の頃までに詠んだものであろう。
この句碑は、松尾芭蕉(1644-1694)が江戸へ下る以前、まだ出生地の伊賀上野に住んで、「宗房」と号していた頃の作品である。いつの頃にこの地を訪れて作られたか、それは明らかではないが、寛文十年(1670)六月頃刊行の『大和順礼』(岡村正辰遍)に収められているところから、この年以前、すなわち二十三.四才の頃までに詠んだものであろう。
〔句意〕
今、内山永久寺に参詣してみると、見事なまでに満開の桜でうめつくされている。
土地の人々はこの桜の花盛りをよく知っているのであろうが外様(よそのと地の人)は知るよしもないのである。
【現地説明板より】
今、内山永久寺に参詣してみると、見事なまでに満開の桜でうめつくされている。
土地の人々はこの桜の花盛りをよく知っているのであろうが外様(よそのと地の人)は知るよしもないのである。
【現地説明板より】
ここ内山永久寺跡の池の周りには、眩しいくらいの桜が咲き乱れています。
土地の人に教えてもらったのですが、朝早くから大勢のカメラマンが来られていたそうです。
お目当ては、この池に散った桜の花弁が湖面全体に広がり、桜の絨毯のようになるそうで、それを写し
に来るそうです。
私が着いたのは10時頃。。。。残念ながら桜の花弁も、大半は沈みところどころにしかなかったで
す。