橋杭岩

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 今から1,500万年ほど前(新生代第三紀中新生の中ごろ)、熊野層群とよばれる砂や泥の厚い地層
が海底にたい積した。橋杭岩のまわりの黒っぽい地層は、その中の敷屋累層の泥岩からできている。
 この地層がたい積した頃、大島から潮岬付近の海底は火成岩の隆起帯になっていた。
 その後、1,400万年前になると、大峰山脈那智から熊野にいたる地域で火成活動が起こった。
 この活動にともなって、北北西ー南南東の方向にのびる地層の割れ目にそってマグマが上昇して
冷えかたまり、橋杭岩のもとになる、直立した厚い板状の岩脈ができた。この岩脈は、石英斑岩と
いう火成岩からできている。やがて、すっかり陸地となった紀南の海岸は、荒々しい黒潮の波にさ
らされながらも、橋杭岩の岩脈はまわりの泥岩よりはるかに硬いために侵食されても残り、あたかも
大島に向かって橋脚を並べたように、今もそそり立っているのである。
                                  【現地説明板より】 

朝日・夕陽百選
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 ここ串本 橋杭岩は、朝日も夕陽も見れるスポットです。 いつかはここで、写真におさめて
みたいですね。

橋杭岩
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 橋杭岩(はしぐいいわ)は、和歌山県東牟婁郡串本町の観光名所で吉野熊野国立公園に属して
いる。同町の大字鬮野川(くじのかわ)の小字橋杭の、紀伊大島に対向する海岸から紀伊大島方面
へ南西一列におよそ850mもの長きにわたって大小約40の岩が連続してそそり立っており、橋杭岩と
はその岩の総称である。直線上に岩が立ち並ぶその姿が橋の杭のように見えることから橋杭岩と呼
ばれている。また干潮時には岩の列中ほどに附属する弁天島まで歩いて渡ることが出来る。

 伝承によると、昔弘法大師が天の邪鬼と串本から沖合いの島まで橋をかけることが出来るか否か
の賭けを行い、弘法大師が橋の杭をほとんど作り終えたところであまのじゃくがこのままでは賭け
に負けてしまうとニワトリの鳴きまねで弘法大師にもう朝が来たと勘違いさせ、弘法大師は作りか
けでその場を去ったために橋の杭のみが残ったということになっている。

 橋杭岩を通して見る朝日はとても美しいと評判で日本の朝日百選の認定も受けている。また、国
の名勝や国の天然記念物の指定も受けている。
               【フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)より抜粋】 

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撮影日 2009年6月7日(日)
所在地 和歌山県東牟婁郡串本町
機材  EOS-デジタルX 標準レンズ