浅草寺 前編

 出張の前日を使って、『浅草寺』『お台場』『東京タワー』を見てきました。
まずは浅草寺。 この雷門が見たくって真っ先に浅草寺に向かいます。
 9時2分京都を出て、11時半ごろ東京駅に到着。 浅草寺に着くとまずは食事を。。。

 江戸っ子に感動! レストランは満席。 レジ付近の家族連れのご主人が、デザートの
アイスが来る前に、『お客さんがお待ちやから、譲ったって!』って。。。
 店員さんが『まだアイスがあります』と言うと、『かまへんかまへん。』とお店を発たれました。

 なんか東京下町の温かさに触れられたようで、気持ちよく東京見物ができましたよー
人の温かさに触れられるって、いいですよね。

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  【浅草寺】
 浅草寺(せんそうじ)は東京都台東区浅草二丁目にある東京都内最古の寺院である。山号は
金龍山。本尊は聖観音(しょうかんのん)。もと天台宗に属していたが第二次世界大戦後独立し、
聖観音宗の総本山となった。観音菩薩を本尊とすることから「浅草観音」あるいは「浅草の観音
様」と通称され、広く親しまれている。東京都内では、唯一の坂東三十三箇所音霊場の札所
(13番)である。江戸三十三箇所観音霊場の札所(1番)でもある。 
  【歴史】

 創建〜平安時代
 『浅草寺縁起』等にみえる伝承によると、浅草寺の草創の由来は以下のとおりである。推古天
皇36年(628年)、宮戸川(現・隅田川)で漁をしていた檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・
たけなり)兄弟の網にかかった仏像があった。これが浅草寺本尊の聖観音(しょうかんのん)像
である。この像を拝した兄弟の主人・土師中知(はじのなかとも、「土師真中知」(はじのまな
かち)とも)は出家し、屋敷を寺に改めて供養した。これが浅草寺の始まりという。観音像は高
さ1寸8分(約5.5センチ)の金色の像であると言われるが公開されることのない秘仏のため、その
実体は不明というほかない。その後大化元年(645年)、勝海上人という僧が寺を整備し観音の夢
告により本尊を秘仏と定めたという。さらに平安時代初期の天安元年(857年。天長5年(828年)
とも)、延暦寺の僧・円仁(慈覚大師)が来寺して「お前立ち」(秘仏の代わりに人々が拝むた
めの像)の観音像を造ったという。これらのことから浅草寺では勝海を開基、円仁を中興開山と
称している。天慶5年(942年)、安房平公雅が武蔵守に任ぜられた際に七堂伽藍を整備したと
の伝えがあり、雷門、仁王門(現・宝蔵門)などはこの時の創建といわれる。

 中世〜近世
 浅草寺の文献上の初見は鎌倉時代の『吾妻鏡』である。同書によれば、治承5年(1181年)、鎌
倉の鶴岡八幡宮造営に際し、浅草から宮大工を呼び寄せている。また、建久3年(1192年)、鎌倉
の勝長寿院後白河法皇の四十九日法要が営まれた際、浅草寺の僧が参加している。後深草院二条
の『とはずがたり』には、彼女が正応3年(1290年)浅草寺に参詣した時の様子が描写されている。

 天正18年(1590年)、江戸に入府した徳川家康浅草寺を祈願所と定め、寺領五百石を与えた。
浅草寺の伽藍は中世以前にもたびたび焼失し、近世に入ってからは寛永8年(1631年)、同19年
(1642年)に相次いで焼失したが、3代将軍徳川家光の援助により、慶安元年(1648年)に五重塔、
同2年(1649年)に本堂が再建された。このように徳川将軍家に重んじられた浅草寺は観音霊場と
して多くの参詣者を集めた。

 貞享2年(1685年)には、表参道に「仲見世」の前身である商店が設けられた。これは、寺が近
隣住民に境内の清掃を役務として課す見返りに開業を許可したものである。江戸時代中期になると、
境内西側奥の通称「奥山」と呼ばれる区域では大道芸などが行われるようになり、境内は庶民の娯
楽の場となった。天保13年(1842年)から翌年にかけて、江戸三座の芝居小屋が浅草聖天町(猿若
町、現・台東区浅草六丁目)に移転し、そうした傾向はさらに強まった。

 近代
 浅草は近代以降も庶民の盛り場、娯楽場として発達し浅草寺はそのシンボル的存在であった。
明治7年(1874年)には境内が公園地に指定され、明治18年(1885年)には表参道両側の「仲見世」
が近代的な煉瓦造の建物に生まれ変わった。明治23年(1890年)には商業施設と展望塔を兼ねた
12階建ての「凌雲閣」(通称「浅草十二階」)が完成している。

 大正6年(1917年)からは日本語の喜歌劇である「浅草オペラ」の上演が始まり、映画が普及す
る以前の大衆演劇として隆盛した。関東大震災では浅草区は大半が焼失する被害にもかかわらず、
境内は一部建築物が延焼するだけの被害で済んでいる。しかし昭和20年(1945年)3月10日、東京
大空襲で旧国宝の本堂(観音堂)、五重塔などが焼失。太平洋戦争後の浅草は、娯楽の多様化や
東京都内の他の盛り場の発展などによって一時衰退した。しかし、地元商店街のPR活動等によって
かつての賑わいを取り戻しつつあり、下町情緒を残す街として東京の代表的な観光地となっており、
羽子板市、ほおずき市などの年中行事は多くの人出で賑わっている。 

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  【雷門】
 表参道入口の門。切妻造の八脚門で向かって右の間に風神像、左の間に雷神像を安置すること
から正式には「風雷神門」というが「雷門」の通称で通っている。慶応元年(1865年)に焼失後、
長らく仮設の門が建てられていたが昭和35年(1960年)、約1世紀ぶりに鉄筋コンクリート造で
再建された。実業家・松下幸之助浅草観音に祈願して病気平癒した報恩のために寄進したもの
である。門内には松下電器産業(現パナソニック)寄贈の大提灯がある。三社祭の時と台風到来
の時だけ提灯が畳まれる。

 風神雷神像は頭部のみが古く、体部は慶応元年(1865年)の火災で焼失後、明治7年(1874年)
に補作。昭和35年(1960年)の門再建時に補修と彩色が加えられている。門の背面の間には、
「金龍・天龍」の像を安置する。西の金龍(女神)は仏師・菅原安男、東の天龍(男神)は彫刻
家・平櫛田中の作で、昭和53年(1978年)に奉納されたものである。 

 ずっとみたかった雷門。 でも、雷門も宝蔵門も五重塔もぜ~んぶ鉄筋なんですね。
奈良では考えられないこと。 外国人が多いだけにちょっと複雑。

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撮影日  2009年7月29日(水)
所在地  東京都台東区浅草二丁目
機材   EOS-デジタルX 標準レンズ