浅草寺 後編
【本堂】 本尊の聖観音像を安置するため観音堂とも呼ばれる。旧堂は慶安2年(1649年)の再建で近世の 大型寺院本堂の代表作として国宝(当時)に指定されていたが、昭和20年(1945年)の東京大空襲 で焼失した。現在の堂は昭和33年(1958年)に再建されたもので鉄筋コンクリート造である。外陣 には川端龍子(かわばたりゅうし)筆「龍の図」、堂本印象筆「天人散華の図」の天井画がある。 内陣中央には本尊を安置する間口4.5メートル、高さ6メートルの宮殿(くうでん、「厨子」と同 義)がある。宮殿内部は前の間と奥の間に分かれ、奥の間に秘仏本尊、前の間には「お前立ち」の 観音像が安置される。宮殿の扉の前には「御戸張」と称する、刺繍を施した帳(とばり)が掛けら れていて、時々デザインの違うものに掛け替えられている。毎年12月13日に開扉法要が行われ、短 時間開扉されるほか、特別な行事の際などに開扉が行われる場合があるが、その際も参拝者が目に することができるのは「お前立ち」像のみで秘仏本尊像は公開されることはない。宮殿の手前左右 には脇侍の梵天・帝釈天像、堂内後方左右の厨子内には不動明王像と愛染明王像を安置する。
本堂はちょうど工事中で、中は見れたものの本堂の外見はみることができなかったです。
本堂前には線香が立てられ、煙を頭に。。。。『こころの中でハゲルナ、ハゲルナと』
本堂前には線香が立てられ、煙を頭に。。。。『こころの中でハゲルナ、ハゲルナと』
【二天門】 重要文化財。本堂の東側に東向きに建つ、切妻造の八脚門である。元和4年(1618年)の建築で 、第二次世界大戦にも焼け残った貴重な建造物である。この門は、本来は浅草寺境内にあった東照 宮(徳川家康を祀る神社)への門として建てられたものである(東照宮は寛永19年(1642年)に焼 失後、再建されていない)。現在、門の左右に安置する二天(持国天、増長天)は上野の寛永寺墓 地にある厳有院(徳川家綱)霊廟から移されたものである。
【宝蔵門】 雷門をくぐり、仲見世の商店街を抜けた先にある。入母屋造の二重門(2階建てで、外観上も 屋根が上下二重になっている門)である。現在の門は昭和39年(1964年)に再建された鉄筋コン クリート造で、実業家・大谷米太郎夫妻の寄進によって建てられたものである。門の左右に金剛 力士(仁王)像を安置することからかつては「仁王門」と呼ばれていたが、昭和の再建後は宝蔵 門と称している。その名の通り、門の上層は文化財の収蔵庫となっている。 2体の金剛力士像のうち、向かって左(西)の阿形(あぎょう)は仏師・錦戸新観、右(東)の 吽形(うんぎょう)像は木彫家・村岡久作の作である。門の背面左右には、魔除けの意味をもつ巨 大なわらじが吊り下げられている。これは、前述の村岡久作が山形県村山市出身である縁から、同 市の奉賛会により製作奉納されているもので、わら2,500kgを使用している。 耐震性の向上と参拝客に対する安全確保のため平成19年(2007年)に屋根改修工事を行い、軽量 さと耐食性に優れたチタン成型瓦を全国ではじめて採用した。使用したチタンは表面にアルミナブ ラスト加工を施したものでそれらをランダムに配置することで土瓦特有の「まだら感」を再現し、 瓦と変わらない外観となっている。また、主棟・隅棟・降棟・妻降棟すべての鬼飾もチタンで製作 された。
【五重塔】 再建前の塔は慶安元年(1648年)の建立で本堂と同様、関東大震災では倒壊しなかったが昭和20 年(1945年)の東京大空襲で焼失した。現在の塔は本堂の西側、寛永8年(1631年)に焼失した三重 塔の跡地付近に場所を移して、昭和48年(1973年)に再建されたもので鉄筋コンクリート造、アル ミ合金瓦葺き、基壇の高さ約5メートル、塔自体の高さは約48メートルである。基壇内部には永代供 養のための位牌を納めた霊牌殿などがあり、塔の最上層にはスリランカ・アヌラダープラのイスル ムニヤ寺院から将来した仏舎利を安置している。なお、再建以前の塔は東側にあった。その位置 (交番前辺り)には「塔」と刻まれた標石が埋め込まれていたが、平成21年(2009年)、新たに塔跡 を記した碑が立っている。碑の横、交番の前の地面はアスファルトをはがし木が植えられ、憩いの 場となっている。
関東は梅雨も明け、いいお天気でした。
そんな日は、はは!大好きなソフトクリームをいただきます。(本日はマンゴーソフト)
今を思えば、いつものただのソフトにすればよかった。。。。
そんな日は、はは!大好きなソフトクリームをいただきます。(本日はマンゴーソフト)
今を思えば、いつものただのソフトにすればよかった。。。。
浅草のお土産はこれにしました。