長屋王の墓

長屋王の墓

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長屋王(ながやのおおきみ、天武天皇13年(684年)? - 神亀6年2月12日(729年3月16日))は、
奈良時代の皇族、公卿。正二位左大臣皇親勢力の巨頭として政界の重鎮となったが、対立する
藤原氏の陰謀といわれる長屋王の変で自害した人物です。

長屋王の政権】
 長屋王慶雲元年(704年)正四位上に直叙され、和銅2年(709年)従三位宮内卿、同3年式部卿、
霊亀2年(716年)には正三位に叙せられている。平城京遷都後、右大臣藤原不比等が政界の中心と
なり、舎人親王長屋王皇親勢力がこれに対する形であった。ただし、長屋王不比等の娘を妻
としていた関係で、不比等の生存中はむしろ王の立場は親藤原氏的存在であったとみる説もある。

 霊亀3年(717年)左大臣石上麻呂が死去すると、翌年長屋王は非参議から一挙に大納言に任ぜら
れ、太政官で右大臣藤原不比等に次ぐ地位を占める。さらに、藤原不比等養老4年(720年)に没
すると、その子である藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)はまだ若く、議政官は当時参議
の地位にあった房前のみであったため、長屋王皇親の代表として政界の主導者となった。その後
長屋王養老5年(721年)に従二位右大臣、さらに神亀元年(724年)聖武天皇の即位と同日、正
二位左大臣に進み、また、元正天皇も自分の妹である吉備内親王とその夫の長屋王に厚い信任を寄
せていたといわれている。

 当時の施策としては、養老7年(723年)に発令された三世一身の法がある。また養老3年(719年)
には新羅からの使者を長屋王邸に迎えて盛大な宴会が催され、長屋王自身の作になる詩や、時の文
人らが作った詩が『懐風藻』に収録されている。なお『懐風藻』にはこのときの詩を含め、長屋王漢詩が計3首収められている。
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長屋王の変】
 このような長屋王の権勢は藤原四兄弟にとっては面白くないものであった。不比等の生前こそ、
舅と娘婿の間柄であって関係も決して悪いわけではなかったが、不比等の死後に不比等の娘で聖武
天皇の生母藤原宮子の称号を巡って長屋王と四兄弟が衝突する(辛巳事件)と、その対立が露にな
ってきた。

 神亀6年(729年)2月、漆部君足(ぬりべのきみたり)と中臣宮処東人が「長屋王は密かに左道
を学びて国家を傾けんと欲す。」と密告があり、それをうけて藤原宇合らの率いる六衛府の軍勢が
長屋王の邸宅を包囲[1]し、舎人親王などによる糾問の結果、長屋王はその妃吉備内親王と子の膳
夫王らを縊り殺させ服毒自殺した[2]。これが長屋王の変である。讒言であったとする説が強い。
聖武天皇は病弱で事件当時には非藤原氏系の安積親王しか男子がいなかった。政治的な対立もさる
ことながら、天皇と安積親王に何かがあった場合には天皇の叔母・吉備内親王の生んだ男子(当然
、長屋王の息子でもある)である膳夫王ら三王が男系皇族での皇位継承の最有力者となる筈であっ
たことも「長屋王排除」の理由として注目すべき点である。

 王の没後、藤原四兄弟は妹で聖武天皇の夫人であった光明子を皇后に立て、藤原四子政権を樹立
するも、天然痘により天平9年(737年)に4人とも死没してしまった。王を自殺に追い込んだ祟り
ではないかと噂されたという[4]。なお、『続日本紀』によると、翌10年(738年)の7月10日、王
のことを誣告した人物の一人である中臣宮処東人大伴子虫により斬殺されてしまう。子虫は長屋
王に恩遇されていた人物の一人で、囲碁のときに話が王のことに及んだため憤激して殺したとなっ
ている。なお、この事件に関して大伴子虫は罪に問われていない。『続日本紀』に「誣告」と記載
されていることから、同書が成立した平安時代初期の朝廷内では、長屋王が無実の罪を着せられた
ことが公然の事実となっていたと想定されている。
                    【フリー百科事典『ウィキペディアより転記】 

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 平群駅の北約500mの所に長屋王の墓が、また長屋王の墓の隣には、夫人の吉備内親王の墓が並ん
でいます。この2つの古墳は、江戸時代の伝承にもとづき治定されたようです。
 両者は天武天皇の孫で、皇位継承権を持つ有力皇族でしたが、神亀6年(729)2月、藤原氏
陰謀により、夫人と子供4人が共に自害し、生駒山に葬られたと「続日本記」に記録されています。

 

撮影日  2010年3月28日(日)
所在地  生駒郡平群町梨本