若草山焼き
山焼きの由来
山焼きには諸説があるようですが、資料を調べた結果をまとめておきます。
これが正解なのかはわかりません。
公儀の山となりました。このとき興福寺は従順な立場だったようです。この事を念頭においてください。
実は元々、近くの農民によって野焼きの習慣があったようで、山を焼く事により次に生えてくる草を田畑の肥草や牛馬の飼料にしていました。ところが、度々東大寺境内近くまで延焼し社寺に危険があるという事から、元文3年(1738年)12月東大寺役僧は放火禁止を奈良奉行に要請します。(東大寺図書館蔵「東大寺境内九折山放火政道記」所収「両寺争論取扱記類聚<法隆寺>」による)
しかし、奈良奉行は改めて申すに及ばずと裁決、そこで東大寺は登大路庄屋や若草山の番人に取締まらせたり、要所に放火禁制の札を立てようとしました。そこで、奉行所は元々領地であった興福寺に詰問しますが、不満があった興福寺はこれに反対。立て札の設置は見送られてしまいます。この頃の興福寺は享保2年に大火災で、その復興計画に腐心していた時期でした。おいおい(@_@;
次いで寛延3年(1750年)老中が奈良に来られる際、これを迎える為に若草山麓の掃除のことで両寺が争います。そして宝暦3年(1753年)東大寺は若草山と押上町の緑池と轟橋の水源の所属について京都西奉行所に上訴します。奉行所の判定は、若草山は春日山に続くのだから興福寺のもの、緑池は東大寺の支配という和解案を提示します。これに東大寺が納得せず、京都奉行所に再上訴します。
京都奉行所では、法隆寺と唐招提寺にこの訴訟を仲裁させる方式をとります。結局土地所属は、興福寺別当一条院宮と東大寺別当観修寺宮に預けるという決証文と提出して幕が引かれることとなります。このとき奈良奉行が5万日若草山を預かっったという俗説があり、それが若草山山焼きするという説明や一連の流れから春日社興福寺と東大寺の領地争いをしたという説明に繋がっていたりしますが、これはあくまでも俗説なんだそうです。
その後山焼きは江戸時代後期から、誰かの放火という事で農民が焼く事になったのだそうです。幕末には正月5日までに焼き、東大寺役僧が南北に延焼を防ぐ為火消人夫を出していたそうです。
あと、山焼きをしないと牛墓の鬼が妖怪を発するので山焼きをするうわさもあったようです。
若草山焼き 豆知識ガイドより転載
山焼きの日程の推移
明治以降をみると、明治11年2月23日に途絶えていた若草山の山焼きが復活します。現在のように夜間行事となったのは同33年2月17日です。(春日日記)戦前は、2月11日に行われ、昭和25年からは、成人の日であった1月15日に行われていました。
平成12年からは、祝日三連休化を目的とした祝日法の改正により、曜日指定となった「成人の日(1月の第二月曜日)」の前日の日曜日に行われるようになりました。
ところが、これだと山焼きが1月7日になってしまうことがありました。参加する消防団が出初め式前に参加することになってしまうことと、1月の前半は天候が安定しないこともあり日程の変更を各関係者から熱望されていました。
ところが、これだと山焼きが1月7日になってしまうことがありました。参加する消防団が出初め式前に参加することになってしまうことと、1月の前半は天候が安定しないこともあり日程の変更を各関係者から熱望されていました。
そこで平成21年からは1月の第4土曜日に変更になりました。ただし、毎年会議で日程は決定するので又日程は変動するかもしれません。
ちなみに山焼きが中止になったり、燃え残しが残った場合は奈良公園管理事務所が後日、晴れた昼間に焼く事になっています。
ちなみに山焼きが中止になったり、燃え残しが残った場合は奈良公園管理事務所が後日、晴れた昼間に焼く事になっています。
若草山焼き 豆知識ガイドより転載
■撮影日 2012年1月28日(土)