又兵衛桜

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≪ 又兵衛桜 ≫
 
又兵衛桜(またべえざくら)は、奈良県宇陀市大宇陀本郷(旧大宇陀町域)にある、樹齢300年とも言われるの古木。瀧桜(たきざくら)とも呼ばれる。県の保護樹。2000年のNHK大河ドラマ葵徳川三代』のオープニング映像で使用された事で有名になった。
 

名前の由来

大坂の役で活躍した、戦国武将後藤基次(又兵衛)にちなんだもの。豊臣家崩壊後、後藤基次は大宇陀(現 奈良県宇陀市)の地で暮らし、再興の時期を待ったと言われるが、桜はその時の後藤家屋敷跡にある。

桜の見頃

4月上旬~中旬が見頃。
4月1日(土)~4月16日(日)まで、ライトアップが行われ、観光客や写真家等で賑わう。
 
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 ここで又兵衛桜の由来となった、後藤基次とはどんな人物だったのか、ちょっとお勉強。
 
≪ 後藤基次 ≫
 
後藤 基次(ごとう もとつぐ)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将黒田氏豊臣氏の家臣。通称は又兵衞で、後藤 又兵衛(ごとう またべえ)として広く知られる。黒田如水豊臣秀頼に仕え、数多くの軍功を挙げ、江戸時代に、「黒田二十四騎」「黒田八虎」「大坂城五人衆」の一人に数えられた。
 

出生 [編集]

諸説あるが、『大日本史』などによると、永禄3年(1560年)に播磨国姫路近郊の神東郡山田村に生まれる。父は別所氏家臣で、後に小寺政職の下にいた後藤新左衛門[1]基国?後藤氏当主・伯父説あり[2])の次男として生まれた。小寺氏が滅亡した後は、仙石秀久に仕えた。

黒田家臣期

当時の記録に基次の具体的な足跡が現れるようになるのは、天正14年(1586年)、九州征伐の宇留津城攻めの頃からである[1]戸次川の戦いにおいて仙石秀久島津家久に大敗し、領国の讃岐国に逃げ帰った後には、黒田孝高重臣である栗山利安の元に、100石で仕えている。領地替えを巡って徹底抗戦を行った城井氏との戦い、文禄元年(1592年)から始まる朝鮮出兵慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いなどに従軍。朝鮮出兵第二次晋州城攻防戦では亀甲車なる装甲車を作って城壁を突き崩し[3]加藤清正配下の森本一久らと一番乗りを競った。関ヶ原の戦いでは石田三成家臣の剛槍使い、大橋掃部を一騎討ちで破るなどの武功を挙げ、戦後大隈城(益富城)16,000石の所領を与えられた。

黒田家出奔後

如水(孝高の法号)の死から2年後の慶長11年(1606年)、基次は一族揃って黒田長政が後を継いだ黒田家を出奔する。当初は豊前国細川忠興を頼ったが、元から関係がこじれていた両家が一触即発の状況となり、徳川家康などの仲裁により細川家を退去する。基次の智勇を惜しんで全国の大名(福島正則前田利長池田輝政結城秀康など)から召し出しがかかる。一旦故郷である播磨国に戻り、領主となっていた輝政を介して岡山池田忠継に仕えた[4]。しかし、長政が基次への「奉公構」という措置を取って干渉していたため、慶長16年(1611年)より京都で浪人生活を送ることになる。

大坂の役

慶長19年(1614年)、大坂の役が勃発すると、先駆けて大坂城に入城する。旗頭として天満の浦での閲兵式の指揮を任された際、その采配の見事さから「摩利支天の再来」と称される。徳川家康からは、基次と御宿政友のみが警戒される名望家であった[5]。歴戦の将として大坂城五人衆[6]の一人に数えられ、山川賢信北川宣勝以下を与力として、大野治長治房らを補佐した。冬の陣では6000人[7]の遊軍を任され、鴫野今福方面を木村重成と協力して守備し、上杉及び佐竹勢と相対した。
翌年5月、大坂夏の陣道明寺の戦いにおいて、大和路の平野部の出口・国分村での迎撃作戦の先鋒として2,800の兵を率いて、6日の未明、平野郷から出陣した。しかし、徳川方先鋒大将の水野勝成が率いる部隊が、既に国分村まで進出していた。次善の策として、中間にあった小松山に布陣し、寡兵ながらも抜け駆けしてきた奥田忠次奥田忠高の子)を討ち取るなど、孤軍で奮戦[8]し賞賛された[9][10]。しかし、後続の薄田兼相明石全登真田信繁らの軍が霧の発生により到着が遅れ[11][12]、逆に伊達政宗の家臣片倉重長率いる鉄砲隊など、10倍以上となった相手に対し、基次は山を降りての展開・突撃を敢行し、乱戦の中に討死した[13]

逸話

生存説

上述の通り、定説では大坂夏の陣で討死したことになっているが、この戦役を生き延びたという伝説が各地に残っている。
  • 奈良県宇陀市では、隠遁生活の後に一生を終えたという伝説が残る。彼の屋敷跡と伝えられる場所には又兵衛桜[17](瀧桜)と呼ばれるの大木が残っている。
  • 大分県中津市耶馬渓には、市の史跡として「後藤又兵衛の墓[18]」が残っている。大阪夏の陣で戦死した基次は影武者で、大坂城落城の前に豊臣秀頼を護衛し、真田幸村と共に瀬戸内海から豊後国日出に上陸して薩摩国島津氏を頼りに落ち延びるという計画を実行していた。上陸後、秀頼一行との再会を誓い日田の地で別れた基次は、かつて黒田氏が中津を領していた頃の知人である女性・お豊のいる伊福の里に向かう。お豊や里の人々と平穏な日々を過ごしていたが、やがて秀頼の病死を知った基次は、豊臣家再興の夢が断たれた悲しみから、承応3年(1654年1月29日、お豊の家で自刃した。基次の死後しばらくしてから、村人が墓を建立したが年月を経て欠壊し、現在残っている墓は、宝暦13年(1763年)に伊福茂助が建て替えた物である[19]
  • 岡山の戦いにおいて、真田幸村により家康の本陣が突き崩され、逃げ回る家康が基次に討たれたとする有名な講談[20]があり、南宗寺には「家康の墓」も遺されている。類例に、基次戦死の翌日、従兄弟で娘婿であった配下の山中藤太夫が、家康を追い回した。戦後、兵たちの赦免が行われ、藤太夫徳川頼宣に召抱えられたが、家康により暗殺されたという[21]

人物・その他

  • 幼少の8歳頃、父が病死したことから、父の友人であった黒田孝高(如水)に引き取られた。しかし、如水が荒木村重によって幽閉された際に、主君の小寺政職と共に、叔父基信がその子の基徳基長兄弟(基次のいとこ)なども村重方に属したために、基次は一族の謀反に連座したと見なされる破目となり、黒田家中からの退去を余儀なくされたと言う。
  • 城井谷崩れの際、殿を務めたと主張したが、目立たないように捨てた猩々緋の陣羽織を、同僚の原種良に拾われており、認められなかった[22](ただし、種良は深田に落ちて動けなくなり、自棄になって謡曲を唸ったところ敵から見逃されたと菅正利の記録に残っている[23]。)。
  • 城井氏ら国人一揆との戦いで、雷火砲という武器を用いたと言う[24]
  • 一揆勢の野仲鎮兼長岩城攻めの際、南弥介に討たれかけたが、堅い具足と援護に助けられた。戦後、弥介が栗山利安配下の同輩となり、基次は食べ足りていなかったので不覚を取ったと釈明している[22]
  • 文禄の役における、平壌城攻略戦での嘉山城攻めで一番槍、迎撃戦での白川城において黒田一成とともに殊勲者となっている。
  • 第二次晋州城攻防戦で、加藤清正の家臣と一番乗りを争い、森本一久が転落した後、飯田直景に下帯を引っ張られながらも、基次は寄騎の堀正勝とともに崩した城壁をよじ登ったが、直景に旗を放り込まれ、先に一番乗りの名乗りと一番首を挙げられたと記録されている[25]
  • 母里友信黒田一成と、一日交替で先陣を任された[26]
  • 講談では、名槍「天下に二ツの槍(日本号)」は、虎退治で母里友信の窮地を救った基次が譲り受け、これを出奔時に友信の弟の野村祐勝の息子、野村祐直に渡されたとされる。
  • 合渡川の戦いにおいて、西岸で石田方が待ち構える長良川を、強行渡河するか、それとも迎撃かの軍議が乙津寺(鏡島弘法)で行われ、藤堂高虎から具申を求められる。「既に池田軍が岐阜城、福島軍が竹ヶ鼻城を落としている以上、論点ではない。」と答えて方針を決定させた。その後、黒田隊の一番渡河を果たしている[3]
  • 黒田家から出奔した後、黒田長政から刺客を差し向けられていた。刺客が送られたことを忠告に来た者に対して、「噂に怖気づいているようでは、武士の名折れである」と動じずに語ったとされる。
  • 外出中に2名の刺客の存在に気付いたが、刺客は基次を恐れて手が出せず筑前に逃げ帰った。しかし、長政はそれを止むを得ないものとして、その刺客を逆に100石を加増した[14]
  • 子の左衛門が大坂で長政の刺客に誘拐された時、秀頼により救出され、毛利家に仕えたという。これに感謝して大坂方に付いたと言われる。左衛門は大坂の陣後、自刃を言い渡されている。
  • 大坂の陣で基次に近侍した長沢九郎兵衛が、大坂の陣の様子を書いた『長沢聞書』を遺している。「傷を風呂で数えると、53箇所あった。」「指揮の声が通りやすいように、外していた面頬を持たされていた。」「真田丸の戦いは偶発戦ではなく、城兵と内通していた松平忠直を偽矢文で誘い出したもので、基次も采配を振るって雷のような攻撃を行った。」などの要旨の記載がある。
  • 身長は六尺(180cm)を超えていた。大坂の陣の頃の体格は、肥満で巨漢だったと言う[12]
  • 冬の陣の開戦前、伏見城を奪取し、瀬田・宇治川を防衛ラインとする作戦を具申し、真田幸村らに賛同を得たが、多くの反対派に退けられ大坂城での籠城戦と決まった[16][20]
  • 今福の戦いでは、上杉景勝の家臣直江兼続の鉄砲隊に狙撃され、当たった数発の中の1発に脇腹を負傷させられたが、傷口を指で確認した後、「秀頼公のご武運は強い」と言い放った。一部の味方には、「一人で豊臣家を背負っているつもりか」とあざけられた[27]
  • 野田・福島の戦いの後、豊臣方は船場に火を放って撤退した。この時、基次は煙に紛れて敵が夜襲してくる事を予測し、「若い者は手柄を立てよ」と伏兵を促したが徳川方は現れず、読み違いをあざけられた。しかし、夜襲は池田忠雄らに計画されていたが、基次を良く知る花房職秀の引き止めにより中止されていたという[3]
  • 塙直之米田是季御宿政友らの本町橋の夜襲戦の際には、直之の上司である大野治房から求められ教授している[13]
  • 大野治長と並ぶ主将格でありながら、戦闘放棄を繰り返す織田長益頼長父子に対して、最も反感を持っていたとされる[27]
  • 道明寺の戦いの前、小侍と嫡子の従軍を禁じた。長沢九郎兵衛は、すぐ退却できるように下馬して戦わない事を条件に認められた[13]
  • 道明寺の戦いの数日前、平野郷での滞陣中に家康の参謀本多正信の親族で、基次と長宗我部盛親の旧知であった京都相国寺・揚西堂が、家康からの使者として訪れる。播磨で50万石という法外な条件での帰順を持ちかけられたが、感激するもこれを拒絶する。これにより、徳川方への内通との噂も立っている。[3]
  • 配下の神西不楽は、仙石秀久に仕える前からの盟友であり、夏の陣に先立って流れ矢を受け、戦死した,[21]
  • 夏の陣で激突し、自ら槍を持って小松山に突入してきた水野勝成[28]とは、城井氏の長岩城の戦いで殿(しんがり)の功名を競い合い、共に高名な存在であった。
  • 伊達家では片倉重長鉄砲隊が討ち取ったとしている。『武功雑記』では、松平忠明配下の山田十郎兵衛が討ち取ったとしている。『難波戦記』では、腰を撃たれ歩行不能となったため部下の吉村武右衛門に命じて介錯された後、『長沢聞書』では奪い返した後、その首を深田に隠されたとしている。
  • 『伊予古跡誌』では、基次の首は後日、武右衛門に持ち帰られ、伊予国の長泉寺に埋葬されたとしている。

 【フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』より抜粋】

 
 
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 国栖奏をみた後、立ち寄った又兵衛桜
 
 数日前に降った雪がかすかに残っていました。
 
 もうすぐすると、桜が咲きだし大勢の人でにぎわう花見スポットになるんですね。
 
 
 
 
 
■撮影日  2013年2月23日(土)