法華寺
法華寺(ほっけじ)は、奈良県奈良市法華寺町にある仏教寺院。奈良時代には日本の総国分尼寺とされた。山号はなし。本尊は十一面観音、開基は光明皇后である。元は真言律宗に属したが、1999年に同宗を離脱し、光明宗と称する。
歴史は、
光明皇后ゆかりの門跡尼寺として知られる(門跡寺院とは、皇族、貴族の子女などが住職となる格式の高い寺院の称)。東大寺が全国の総国分寺であったのに対し、法華寺は総国分尼寺と位置づけられ、詳しくは法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)といった。法華寺の地にはもと藤原不比等の邸宅があり、不比等の没後、娘の光明子、すなわち光明皇后がこれを相続して皇后宮とした。天平17年(745年)5月、皇后宮を宮寺としたのが法華寺の始まりである(『続日本紀』)。この宮寺を「法華寺」と称したことが文書で確認できるのは、2年後の天平19年(747年)からである。
聖武天皇は天平13年(741年)2月14日、国分寺・国分尼寺建立の詔を発した(詔の日付は『類聚三代格』による)。法華寺は、この詔に基づいて建立整備された国分尼寺である。ただし、前述のように、法華寺の前身である皇后宮を宮寺としたのは4年後の天平17年(745年)5月のことであり、国分尼寺を意味する「法華寺」の寺号の使用が確認できるのは、天平19年(747年)正月の「法華寺政所牒」(正倉院文書)が初見である。国分寺・国分尼寺建立の詔が発せられてからの数年間、大和国の国分尼寺は存在しなかったのか、存在したとしたらどこにあったのかなど、創建経緯の細部については不明な点が多い。福山敏男は、天平16年6月8日付けの「金光明寺写経所文書」(正倉院文書)に「法花寺」という寺名が見えることに着目し、現・法華寺の創建以前に別の場所に「法花寺」すなわち国分尼寺が存在したこと、それは東大寺の前身寺院である金鐘寺に属していた阿弥陀堂であろうという説をとなえた。
法華寺は皇后発願の寺院であり、国分尼寺という位置づけでありながら、伽藍の完成までには相当の歳月を要したとみられる。天平宝字6年(762年)の「作金堂所解(さくこんどうしょげ)」及び「造金堂所解案」という文書を見ると、この時点で金堂の建立工事がまだ続いていたことがわかる。なお、法華寺造営のための役所であった造法華寺司は延暦元年(782年)に廃止されており、遅くともこの頃までには伽藍整備が完成していたと見られる。
発掘調査の結果、奈良時代の法華寺の境内は平城宮東宮の東に接し、北は一条条間路、南は二条条間路、東は東二坊大路、西は東一坊坊間路を境として、南北3町、東西2町に及んでいたことがわかった。創建当初の金堂や講堂は、現・法華寺南門のさらに南に位置し、金堂の南に中門、その南には東西両塔があったことがわかっている。さらに、境内南西部には天平宝字3年(759年)から翌年にかけて建立された阿弥陀浄土院があった。阿弥陀浄土院は、丈六の阿弥陀三尊像を本尊とし、『続日本紀』によれば、天平宝字5年(761年)、光明皇太后の一周忌がここで営まれている。
鎌倉時代に入り、東大寺大仏の再興を果たした僧・俊乗坊重源(しゅんじょうぼう ちょうげん)は、建仁3年(1203年)、法華寺の堂宇や仏像を再興した。現在も寺に残る鎌倉時代様式の木造仏頭は、この再興時の本尊廬舎那仏(るしゃなぶつ)の頭部であると推定されている。さらに、その半世紀後、鎌倉時代中期の真言律宗の僧・叡尊(えいそん)によって本格的な復興がなされた。
【フリー科学辞典】ウィキペディアより抜粋