《15》 柳生古城を更に進むと、興ヶ原城が

?H2>布目川から見た興ヶ原城
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 柳生を月ヶ瀬方面に向かうとすぐに布目川に平行して道が走ります。
そこの北側の丘が、興ヶ原城です。
 興ヶ原城の裾野は一面茶畑が広がっています。

 山道を進むと急なジグザグ道が続き、腰郭から虎口を通り主郭へ入ります。
主郭は現在植林されており、下草もなく遺構がはっきりとわかります。
主格はほぼ正方形の形をしており南側・西側はきれいに土塁も残っていました。

 主郭の北側には、二本の堀切があり南側(写真の2枚目)は深く、北側は
浅く掘られています。

 布目川沿いに、興ヶ原氏の系統についての案内板があります。

   興ヶ原氏に就いて
 嵯峨源氏渡部党の末孫の興ヶ原氏が室町時代中頃の永享年間に伊賀の名張
から来て、この地に土着して近隣の村々を所領し、初め桃香野・大穂・興ヶ原
の三ヶ庄を領した後に月瀬・高尾・田山を加う。
 天文・永禄の頃に興ヶ原遠江守助豊と言う人がありその子若狭守助秀は後に
豊臣秀長に仕えて千石余りを領した。
 助秀の妹は柳生但馬守宗厳に嫁して春桃御前と言はれ、五男四女を生む。
五男は即ち厳勝久斎五郎右衛門こと但馬守宗矩である。宗矩は一万二千五百石
の大名となった。そればかりか惣目付と言う重い役目になり、将軍家の兵法
師範となった。
 十兵衛三厳や飛騨守宗冬はその子にあたる。
 関ヶ原次郎四郎助勝は助秀の子で慶長十六年豊臣秀頼に仕えて奥方千姫付を
命ぜられ千二百石を賜った元和元年五月大阪夏の陣に力戦し、七人力あったので
よく強弓を引いて徳川勢をなやましたが二月七日城が陥ちて浪人となる。
 十兵衛三厳の代に至り柳生家に仕え、その後も子孫代々柳生家に仕え十五石を
給せられ徳川末期に大河原へ転住した。
          興ヶ原氏系統図より    柳生観光協会 興ヶ原自治

主郭横の掘切

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 興ヶ原城は、南側に帯郭を配置し、土塁で囲まれた主郭、北側には2本の堀切
で守られたシンプルな城郭でした。2本の堀切のうち北側の堀切は浅く、もう一
本の堀切を見渡せる位置から、武者走りではないかと思われます。

堀切の尾根から見た主郭

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 暗くて見づらいですが、植林になっており下草もなく遺構がわかりやすく
なっています。

登城口

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 城への入口は、興ヶ原のバス停付近に農協があり、そこから北東方向をみると
写真の2枚目の景色があります。 
ビニールハウス奥の作業小屋の横の山道が入口になります。

所在地 奈良市興ヶ原町
高さ 標高265m 比高50m
規模 南北75m 東西30m
築城年代 室町時代か
築城者・城主  興ヶ原氏
遺構 郭・堀切・土塁


登城日 2007年2月27日(火)

【参考サイト  奈良大和路「気分はコクジン2」】
 http://gfi401.fc2web.com/narakokujin2-35.htm