内山永久寺 (山の辺の道)

内山永久寺跡碑

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 石上神宮から南へ歩くとすぐに内山永久寺跡が現れます。
 今は当時の面影はなく池がポツンとあるのみです。 その手付かずな風景が、またいいんですよね。

最盛期の頃の内山永久寺の図

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【歴史】
 永久年間(1113年-1118年)に鳥羽天皇の勅願により興福寺大乗院第2世頼実が創建し、第3世尋範に
引き継がれて堂宇の整備が進められた。このため、当初より興福寺大乗院の末寺としての性格を備え、
また本地垂迹説の流行と共に石上神宮の神宮寺としての性格を備えるようにもなり、興福寺を支配
していた2大院家の一方である大乗院の権威を背景として、室町期には絶大なる勢力を誇った。

 『太平記』によると延元元年・建武3年(1336年)には後醍醐天皇が一時ここに身を隠したと伝えられ、「萱御所跡」という旧跡が残された。

 かつては浄土式回遊庭園を中心に、本堂、灌頂堂、八角多宝塔、三重塔など最盛期には50以上の
堂塔が並ぶ大伽藍を誇り、江戸時代には971石の朱印地を与えられていた。なおこの時代に上乗院が
寺主となって興福寺支配下から離れ、真言宗寺院となっている。

 大和では東大寺興福寺法隆寺に次ぐ待遇を受ける大寺であり、その規模の大きさと伽藍の壮麗さ
から、江戸時代には「西の日光」とも呼び習わされた。

 また、当寺は修験道当山派との関わりも深く、当山三十六正大先達衆を構成する一寺として、重要な
役割を果たしており、これは修験道が明治の神仏分離令で禁止された結果、続く廃仏毀釈で当寺が致命的な打撃を被る一因となった。

 明治に入って廃仏毀釈の嵐の中で寺領を没収され、経営基盤を奪われた当寺は廃寺となって僧侶は
還俗し、石上神宮の神官となった。更に、壮麗を極めた堂宇や什宝はことごとく徹底した破壊と略取の対象となった。この際流出した仏像・仏画・経典等はいずれも製作当時の工芸技術の精華と言うべき優品揃いであったことが知られており、ベルリン民俗学博物館が購入したものの第二次世界大戦末期のベルリン攻防戦で烏有に帰した、真然筆と伝えられる真言八祖像などの海外流出作品を除く、日本国内に現存するそれらの大半が重要文化財・国宝指定を受けていることは、当寺の得ていた富がいかに巨大であったかを物語るものであった。

 現在では当寺の敷地の大半は農地となり、本堂池と萱御所跡の碑が往時をしのぶだけである。

                                 【wikipediaより抜粋】


 この日は、山の辺の道を石上神社から南に、ズルをしながら見て回りました。 はは!
 車を石上神宮の駐車場に車を停めて、石神神宮⇒内山永久寺⇒石上神宮→竹之内環濠集落⇒夜都伎神社⇒竹之内環濠集落→天理市トレイルセンター⇒長岳寺⇒崇神天皇陵⇒天理市トレイルセンター→黒塚古墳⇒黒塚古墳展示館にいってきました。 ⇒は徒歩。 →は車です。
 いけませんね。結構ズルばっかしです。
 この日は、天気も曇り空でハイキングの方もほとんどすれ違う事がなかったです。



■撮影日  2008年2月24日(日)