郡山金魚資料館
郡山金魚資料館(金魚のふる里 やまと錦魚園)
第14回全国金魚すくい選手権大会
農学博士 松井佳一先生は、明治四年二月山口県富田村(現新南陽市)に生る。
水産講習所養殖課卒業 豊橋養魚試験場主任、金魚の研究によって昭和九年農学博士号を授与
各水産試験場及研究場長等を歴任し近畿大学農学部水産学科の教授となり昭和51年4月没する。
一生を金魚の研究につくし世界に広く日本の金魚を学術的に紹介し、当養魚場へは研究の為に足を運ばれて、多く著書を残された。
昭和53年(3回忌)4月先生の生前の偉業を顕彰するため この像を建立したものである。
水産講習所養殖課卒業 豊橋養魚試験場主任、金魚の研究によって昭和九年農学博士号を授与
各水産試験場及研究場長等を歴任し近畿大学農学部水産学科の教授となり昭和51年4月没する。
一生を金魚の研究につくし世界に広く日本の金魚を学術的に紹介し、当養魚場へは研究の為に足を運ばれて、多く著書を残された。
昭和53年(3回忌)4月先生の生前の偉業を顕彰するため この像を建立したものである。
【現地説明文より】
□出現年代 幕末、明治初期~
□作出国 日本
□作出者 初代石川亀吉
□作出国 日本
□作出者 初代石川亀吉
【歴史・過程】
1748年に発行された現在確認されている日本最古の金魚飼育書・安達喜之著「金魚養玩草」(きんぎょそだてぐさ)にすでに「卵虫」として記されていることが確認されている。
しかし、当時のランチュウは、現在のような肉瘤の発達したランチュウではなく、「マルコ」と呼ばれるランチュウの原始となる肉瘤の発達していない金魚だった(マルコ自体は江戸時代、オランダ人により中国から長崎の出島に持ち込まれたと言う)。
現在の肉瘤の発達したいわゆる獅子頭ランチュウは、幕末、明治にかけて、東京の初代石川亀吉氏らが家業を投げ打って改良に取り組み、現代ランチュウの基礎を築いた。以後、愛好家・養魚家らによりさらに改良が重ねられ現在に至る。
しかし、当時のランチュウは、現在のような肉瘤の発達したランチュウではなく、「マルコ」と呼ばれるランチュウの原始となる肉瘤の発達していない金魚だった(マルコ自体は江戸時代、オランダ人により中国から長崎の出島に持ち込まれたと言う)。
現在の肉瘤の発達したいわゆる獅子頭ランチュウは、幕末、明治にかけて、東京の初代石川亀吉氏らが家業を投げ打って改良に取り組み、現代ランチュウの基礎を築いた。以後、愛好家・養魚家らによりさらに改良が重ねられ現在に至る。
【特徴】
柄は赤のみ、赤と白(更紗)、白のみが原則で、黒が入らない。
ランチュウのように背ビレのない金魚は、上から観賞することが基本とされている。
体型は丸くて短く、背ビレがない。尾ビレは太くて短い尾筒に対して、角度をつけて伸びている。
頭部の肉瘤は豊かに発達するが、バランスよく発達した魚が良いとされている。柄は赤のみ、赤と白(更紗)、白のみが原則で、黒が入らない。
ランチュウのように背ビレのない金魚は、上から観賞することが基本とされている。
ぶらっとバイクで気分転換! 郡山城近くを走っているとふと金魚の看板が目に付いて以前から気になっていた郡山金魚資料館を訪れることに。
だいたいの位置は知ってたので資料館の看板はすぐに目に入ったのですが、道が狭い、狭い。
バイクでしたので、看板目指して最短距離でまっしぐら。
それでも路地や他人の敷地を通ったりして。。。。 なんとかたどり着いた感じ。
だいたいの位置は知ってたので資料館の看板はすぐに目に入ったのですが、道が狭い、狭い。
バイクでしたので、看板目指して最短距離でまっしぐら。
それでも路地や他人の敷地を通ったりして。。。。 なんとかたどり着いた感じ。
正直、資料館と言っても期待はしない方がいいかも・・・・・
でも、結構見学者はいましたよね。
金魚の歴史や、めづらしい金魚の観賞など楽しませてもらいました。
でも、結構見学者はいましたよね。
金魚の歴史や、めづらしい金魚の観賞など楽しませてもらいました。
■撮影日 2008年7月9日(水)