第11代 垂仁天皇
垂仁天皇陵
【第11代 垂仁天皇】
垂仁天皇(すいにんてんのう、崇神天皇29年1月1日(紀元前69年1月26日) - 垂仁天皇99年7月14日
(紀元後70年8月8日)は『古事記』・『日本書紀』に伝えられる第11代の天皇(在位:垂仁天皇元年1月2日(紀元前29年) - 垂仁天皇99年7月14日(紀元後70年)。活目入彦五十狭茅尊(いくめいりびこいさちのみこと)・活目尊。『古事記』に伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと)、『常陸国風土記』に伊久米天皇、『令集解』所引「古記」に生目天皇、『上宮記』逸文に伊久牟尼利比古(いくむにりひこ)大王と見える。『日本書紀』、『古事記』に見える事績は総じて起源譚の性格が強く、その史実性については多分に疑問である。
□系譜
天皇系図 8~15代崇神天皇の第三皇子。母は御間城姫命(みまきひめのみこと)。
垂仁天皇(すいにんてんのう、崇神天皇29年1月1日(紀元前69年1月26日) - 垂仁天皇99年7月14日
(紀元後70年8月8日)は『古事記』・『日本書紀』に伝えられる第11代の天皇(在位:垂仁天皇元年1月2日(紀元前29年) - 垂仁天皇99年7月14日(紀元後70年)。活目入彦五十狭茅尊(いくめいりびこいさちのみこと)・活目尊。『古事記』に伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと)、『常陸国風土記』に伊久米天皇、『令集解』所引「古記」に生目天皇、『上宮記』逸文に伊久牟尼利比古(いくむにりひこ)大王と見える。『日本書紀』、『古事記』に見える事績は総じて起源譚の性格が強く、その史実性については多分に疑問である。
天皇系図 8~15代崇神天皇の第三皇子。母は御間城姫命(みまきひめのみこと)。
皇后(前):狭穂姫命(さほびめのみこと。彦坐王の女) 垂仁5年に焼死
誉津別命(ほむつわけのみこと、本牟智和気御子)
皇后(後):日葉酢媛命(ひばすひめのみこと。丹波道主王の女)
五十瓊敷入彦命(いにしきいりびこのみこと)
大足彦忍代別尊(おおたらしひこおしろわけのみこと、景行天皇)
大中姫命(おおなかつひめのみこと、古事記には大中津日子命)
倭姫命(やまとひめのみこと) 斎宮
稚城瓊入彦命(わかきにいりひこのみこと)
妃:渟葉田瓊入媛(ぬばたにいりひめ。日葉酢媛の妹)
鐸石別命(ぬてしわけのみこと) 和気氏の祖(→和気清麻呂)
胆香足姫命(いかたらしひめのみこと)
妃:真砥野媛(まとのひめ。日葉酢媛の妹)
妃:薊瓊入媛(あざみにいりひめ。同上)
息速別命(いこはやわけのみこと、池速別命)
稚浅津姫命(わかあさつひめのみこと)
妃:迦具夜比売(かぐやひめ。大筒木垂根王の女) かぐや姫のモデル?
袁那弁王(おなべのみこ、古事記のみ)
妃:綺戸辺(かにはたとべ、弟苅羽田刀弁。山背大国不遅の女)
磐撞別命(いわつくわけのみこと、磐衝別命) 三尾氏の祖
両道入姫命(ふたじいりひめのみこと、石衝毘売命) 日本武尊の妃、仲哀天皇の母
妃:苅幡戸辺(かりはたとべ、苅羽田刀弁。弟苅羽田刀弁の姉)
祖別命(おおちわけのみこと、落別王・意知別命) 伊賀国造・小槻氏の祖
五十日足彦命(いかたらしひこのみこと) 五十嵐氏の祖、新潟県五十嵐神社に祭られている。
胆武別命(いたけるわけのみこと、伊登志別王)
母親未詳
円目王(つぶらめのみこ、令集解に見える)
誉津別命(ほむつわけのみこと、本牟智和気御子)
皇后(後):日葉酢媛命(ひばすひめのみこと。丹波道主王の女)
五十瓊敷入彦命(いにしきいりびこのみこと)
大足彦忍代別尊(おおたらしひこおしろわけのみこと、景行天皇)
大中姫命(おおなかつひめのみこと、古事記には大中津日子命)
倭姫命(やまとひめのみこと) 斎宮
稚城瓊入彦命(わかきにいりひこのみこと)
妃:渟葉田瓊入媛(ぬばたにいりひめ。日葉酢媛の妹)
鐸石別命(ぬてしわけのみこと) 和気氏の祖(→和気清麻呂)
胆香足姫命(いかたらしひめのみこと)
妃:真砥野媛(まとのひめ。日葉酢媛の妹)
妃:薊瓊入媛(あざみにいりひめ。同上)
息速別命(いこはやわけのみこと、池速別命)
稚浅津姫命(わかあさつひめのみこと)
妃:迦具夜比売(かぐやひめ。大筒木垂根王の女) かぐや姫のモデル?
袁那弁王(おなべのみこ、古事記のみ)
妃:綺戸辺(かにはたとべ、弟苅羽田刀弁。山背大国不遅の女)
磐撞別命(いわつくわけのみこと、磐衝別命) 三尾氏の祖
両道入姫命(ふたじいりひめのみこと、石衝毘売命) 日本武尊の妃、仲哀天皇の母
妃:苅幡戸辺(かりはたとべ、苅羽田刀弁。弟苅羽田刀弁の姉)
祖別命(おおちわけのみこと、落別王・意知別命) 伊賀国造・小槻氏の祖
五十日足彦命(いかたらしひこのみこと) 五十嵐氏の祖、新潟県五十嵐神社に祭られている。
胆武別命(いたけるわけのみこと、伊登志別王)
母親未詳
円目王(つぶらめのみこ、令集解に見える)
□事績
『日本書紀』の編年に拠る。
崇神天皇29年1月1日(紀元前69年)に誕生。48年4月(紀元前50年)、夢の前兆により皇太子に立て
られる。 垂仁天皇元年1月(紀元前29年)、即位。2年2月(紀元前28年)に狭穂姫を立后、10月、纒向に遷都した。
3年3月(紀元前27年)、新羅王子の天日槍(あめのひほこ)が神宝を奉じて来朝。
5年10月(紀元前25年)、皇后の兄狭穂彦(さほびこ)が叛乱を起こし、皇后は兄に従って焼死。
7年7月(紀元前23年)、野見宿禰(のみのすくね)が当麻蹴速(たいまのけはや)と相撲をとり蹴殺す(相撲節会の起源説話)。
15年2月(紀元前15年)、丹波道主王の女たちを後宮に入れ、8月にその中から日葉酢媛を皇后とした。
25年3月(紀元前5年)、天照大神の祭祀を皇女の倭姫命に託す。
倭姫は菟田(うだ。奈良県宇陀郡)・近江・美濃を経て伊勢国に至り、五十鈴川の辺に祠を建てて、
伊勢神宮を興したという。
27年8月(紀元前3年)、諸神社に武器を献納し、神地・神戸を定める。
この年、来目(橿原市久米町)に初めて屯倉を興す。
32年7月(3年)、日葉酢媛が薨去。野見宿禰の進言に従い、殉死に替えて土偶を葬る(埴輪の起源説話)。
『古事記』に「石祝(棺か)作りを定め、土師部(はにしべ)を定めたまいき」とある。
石棺を作る部民や赤土で種々の器を作る部民を定めたというのである。
35年(6年)、河内国の高石池や茅渟(ちぬ)池を始め、諸国に多くの池溝を開いて、農業を盛んに
したと伝える。
39年10月(10年)、五十瓊敷命が剣千振を作り、石上神宮に納める。この後、五十瓊敷命に命じて、神宮の神宝を掌らせる。
90年2月(61年)、田道間守(たじまもり)に命じて、常世国の非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を求めさせる。
99年7月(70年)、天皇崩御。140歳(紀)、153歳(記)、139歳(大日本史)。12月、菅原伏見陵に葬られた。
『日本書紀』の編年に拠る。
崇神天皇29年1月1日(紀元前69年)に誕生。48年4月(紀元前50年)、夢の前兆により皇太子に立て
られる。 垂仁天皇元年1月(紀元前29年)、即位。2年2月(紀元前28年)に狭穂姫を立后、10月、纒向に遷都した。
3年3月(紀元前27年)、新羅王子の天日槍(あめのひほこ)が神宝を奉じて来朝。
5年10月(紀元前25年)、皇后の兄狭穂彦(さほびこ)が叛乱を起こし、皇后は兄に従って焼死。
7年7月(紀元前23年)、野見宿禰(のみのすくね)が当麻蹴速(たいまのけはや)と相撲をとり蹴殺す(相撲節会の起源説話)。
15年2月(紀元前15年)、丹波道主王の女たちを後宮に入れ、8月にその中から日葉酢媛を皇后とした。
25年3月(紀元前5年)、天照大神の祭祀を皇女の倭姫命に託す。
倭姫は菟田(うだ。奈良県宇陀郡)・近江・美濃を経て伊勢国に至り、五十鈴川の辺に祠を建てて、
伊勢神宮を興したという。
27年8月(紀元前3年)、諸神社に武器を献納し、神地・神戸を定める。
この年、来目(橿原市久米町)に初めて屯倉を興す。
32年7月(3年)、日葉酢媛が薨去。野見宿禰の進言に従い、殉死に替えて土偶を葬る(埴輪の起源説話)。
『古事記』に「石祝(棺か)作りを定め、土師部(はにしべ)を定めたまいき」とある。
石棺を作る部民や赤土で種々の器を作る部民を定めたというのである。
35年(6年)、河内国の高石池や茅渟(ちぬ)池を始め、諸国に多くの池溝を開いて、農業を盛んに
したと伝える。
39年10月(10年)、五十瓊敷命が剣千振を作り、石上神宮に納める。この後、五十瓊敷命に命じて、神宮の神宝を掌らせる。
90年2月(61年)、田道間守(たじまもり)に命じて、常世国の非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を求めさせる。
99年7月(70年)、天皇崩御。140歳(紀)、153歳(記)、139歳(大日本史)。12月、菅原伏見陵に葬られた。
□御陵
垂仁天皇陵『延喜式』諸陵寮に拠れば、菅原伏見東陵(すがわらのふしみのひがしのみささぎ)に葬られた。『古事記』に「御陵は菅原の御立野(みたちの)の中にあり」、『日本書紀』に「菅原伏見陵(すがわらのふしみのみささぎ)」、『続日本紀』には「櫛見山陵」として見える。
現在、同陵は奈良県奈良市尼辻西町の宝来山古墳(前方後円墳、全長227m)に比定される。
垂仁天皇陵『延喜式』諸陵寮に拠れば、菅原伏見東陵(すがわらのふしみのひがしのみささぎ)に葬られた。『古事記』に「御陵は菅原の御立野(みたちの)の中にあり」、『日本書紀』に「菅原伏見陵(すがわらのふしみのみささぎ)」、『続日本紀』には「櫛見山陵」として見える。
現在、同陵は奈良県奈良市尼辻西町の宝来山古墳(前方後円墳、全長227m)に比定される。
現在の宝来山古墳の濠の中、南東に田道間守の墓とされる小島がある。この位置は、かっての濠の堤上に相当し、濠を貯水のため拡張して、島状になったと推測される。しかし、戸田忠至等による文久の修陵図では、この墓らしきものは描かれていない。
この古墳のそばにある小島は、田道間守(たじまもり)の墓と伝えられています。
いわれています。
人々はこれを悼み、天皇陵の側に橘の木を植えたといいいます。
この故事から、御所には「右近の橘(うこんのたちばな)」が植えられる様になったと言われている。
現在でもこの垂仁天皇陵の側には、タジマモリのみかんが植えられています。
たが、はじめて訪れることができました。
訪れた時は亀や鳥達の出迎えがあり、特に古墳内は鳥の楽園というぐらいの鳥達が飛び回っていました
よ。
■撮影日 2008年7月2日(水)