岩船寺

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 岩船寺(がんせんじ)は京都府木津川市加茂町にある真言律宗の寺院である。山号は高雄山(こうゆうざん)。本尊は阿弥陀如来。開基(創立者)は行基と伝える。アジサイの名所として知られ「アジサイ寺」とも呼ばれる。岩船寺の名は門前にある岩船(いわふね)にちなむ。

□歴史
 岩船寺京都府の南端、奈良県境に近い当尾(とうの)の里に位置する。この地区は行政的には京都府に属するが、地理的には奈良に近く、文化的にも南都の影響が強いとされている。近くには九体阿弥陀仏で知られる浄瑠璃寺がある。岩船寺浄瑠璃寺付近には当尾石仏群と称される鎌倉時代を中心とした石仏(多くは自然の岩壁に直接刻んだ磨崖仏)や石塔が多数残り、その中には鎌倉時代の銘記を有するものも多い。当尾には中世には、都会の喧騒を離れて修行に専念する僧が多数居住し、多くの寺院が建てられたと言われ、今に残る石仏・石塔群はその名残りであるといわれている。

 岩船寺は寺伝によると天平元年(729年)に聖武天皇の発願により行基が建立したと伝わる。その後、平安時代初期の大同元年(806年)に空海弘法大師)の甥・智泉(ちせん)が入り、伝法灌頂(密教の儀式)の道場として報恩院を建立した。弘仁4年(813年)には嵯峨天皇が皇子誕生を祈念して後の仁明天皇を授かったので、嵯峨天皇の皇后が伽藍を整え、岩船寺と称するようになったという。以上はあくまでも寺伝であり、中世以降の火災で古記録が失われているため、草創の正確な時期や事情ははっきりしてない。なお、本尊の阿弥陀如来坐像は坐高2.8メートルを超える大作であり、像内に天慶9年(946年)の銘記があることから、遅くとも10世紀半ばには岩船寺はかなりの規模の寺院であったと推定される。

 承久3年(1221年)の承久の変の兵火により建物のほとんどを焼失するが、室町時代に三重塔などが再建される。江戸時代には興福寺の末寺であった。

□札所
仏塔古寺十八尊 第4番
関西花の寺二十五霊場 第15番

□建造物
 本堂-昭和62年(1987年)に再建された建物で、平安時代阿弥陀如来坐像が安置されている。
 三重塔(重要文化財)-室町時代の嘉吉2年(1442年)に建立された三重塔で、初重の内部には来迎柱を立て、須弥壇と来迎壁を設ける。
 十三重石塔重要文化財)-13個の笠石を積み重ねた高さ6.2mの十三重塔で、鎌倉時代に建立された。 五輪塔重要文化財)-鎌倉時代 石室(重要文化財)-花崗岩製。奥壁には不動明王像を刻み、手前左右に2本の角柱を立て、これらで寄棟屋根を支える。応長2年(1312年)の銘がある。
 なお、境内の裏山には白山神社春日神社の社殿が並んで建ち、向かって左の白山神社本殿は重要文化財である(室町時代建立)。

重要文化財
 三重塔 / 十三重石塔 / 五輪塔 / 石室
 木造阿弥陀如来坐像 - 岩船寺の本尊。本堂に安置。坐高2.8メートルを超える大作で、像内に「□□九年」と読める墨書があり、年号の部分は判読不能だが、干支から天慶9年(946年)とわかる。10世紀の在銘基準作例として貴重である。表情は穏やかだが、体躯は全体に太造りで、平安初期彫刻から平安後期の定朝様の優美な仏像への過渡期に位置する像である。
 厨子入木造普賢菩薩像 - もと三重塔に安置。像高39cmの小像で平安時代後期の作である。

京都府指定文化財
 木造四天王立像-本堂に安置。正応6年(1293年)の銘がある。

               【フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)より抜粋】

水浴に用いたと伝える花崗岩製の石舟
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 岩船寺の入り口付近にあり、当時の僧呂達が水浴に用いたと伝えられています。今の家庭用のお風呂より少し大きめ。。。 思わずこの中に入ってしまいたくなりますよね。

岩船地蔵石龕(せきがん)仏(南北朝)
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 岩船寺の門のすぐ脇にあります。

本堂
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 高雄山報恩院と号する真言律宗西大寺派に属する当尾地方屈指の古刹ですが創建由緒は明らかではありません。寺伝によると当寺は天平元年(729年)、僧・行基一宇阿弥陀堂を建てたのが始まりと伝え又、大同元年(729年)、知泉(弘法大師姉の子)が潅頂堂、報恩院を造営したと伝えます。
 しかし、本尊の阿弥陀像が天慶9年(946年)の造顕である事から想像して、平安時代に流行した阿弥陀
信仰によって建立されたと思われます。中世の兵火に掛かって焼失し今は、本堂、三重塔、鎮守社があるだけですが、建築、仏像、石造遺物に見るべきものが多く、紫陽花寺としても知られ、浄瑠璃寺と共に訪れる人が多いです。

三重塔
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 高さ18m余、方三間、屋根は本瓦葺、弘和2年(1382年)の建立と伝え、全体に木割は繊細で吉野末期の様式を表しています。内部は第二層で心柱を留め、天井は中央一間を高くした二重折上小組格天井(おりあげこぐみごうてんじょう)とし、須弥壇(しゅみだん)の後に来迎壁を造って極彩色にするなど外観の素朴さに対して内部は見るべきものが多いそうです。2枚目の写真は、天邪鬼ですよね。
 よく、灯篭を支えている天邪鬼を見るのですが、この天邪鬼は塔を支えていましたよ。

五輪石塔
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 火輪(笠)の一部が欠けていますが、全体に釣合いのとれた鎌倉風のもので中興開山・平智(へいち)僧都の墓と伝えられています。

地蔵石仏(魔除け地蔵:鎌倉末期)
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 円光を背にした花崗岩製の厚肉彫の地蔵坐像で高さ75cmあります。魔除けの地蔵とて信仰されています。

十三重石塔(重文:鎌倉中期)
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鐘と三重塔
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鎮守社
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貝吹岩と貝吹山からの眺望
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 岩船寺背後の貝吹山々頂にある一畳敷ほどの大きさの平坦な岩からなり岩上からは当尾西方一帯の山野を一望できる絶景が見られます。昔、この付近に三十九坊を数える多くの堂舎坊があって法要厳修の時、この岩上に立って法螺貝を吹き鳴らし、一山の僧侶を呼び集めたと伝えます。又、念仏行者が日想観を行った所とも言われ岩船寺を訪ねる者は、貝吹岩を訪ねるべきだとも言われます。




 
■撮影日  2008年12月4日(木)
■所在地  京都府木津川市加茂町岩船