国指定史跡 新沢千塚古墳群
≪史跡 新沢千塚古墳群(にいざわせんづかこふんぐん)≫
新沢千塚とは、標高約210mの貝吹山から西・北方に舌(ぜつ)状に広がる低丘陵上に立地
する約600基の古墳群をいう。この古墳群の最大の特徴は、群集(ぐんしゅう)形成時期が5
世紀後半(約1,500年前)を中心とすることで、他の古墳群よりほぼ半世紀も早く最盛期を迎えて
いる。このことは埋葬方法にも現れており、ほとんどが木製の棺を用いたもので、横穴式石室を
採用するものは全地域で18基という少なさである。
「史跡 新沢千塚古墳群」とは、そのうち丘陵北端部、県道戸毛-久米線をはさむ通称千塚山
地区に立地する約350基の古墳を指す。4世紀代には既に古墳の築造が見られるものの数は少
なく、群形成は5世紀前半からである。6世紀前半に西の曽我(そが)川に面した丘陵西端に2
基の横穴式石室・前方後円墳が築かれる頃を最盛期とし、6世紀後半まで、約150年間続く。
分布密度は非常に高く、しかも前方後円形・前方後方形・帆立貝形・方形・長方形という特殊
で比較的規模の大きい古墳を中心として、小規模墳とともに一定の範囲内に小集団を形成するこ
とを特色とする。各集団ごとにみると、墳形の組合せに各々特色があり、盛衰時期にも微妙な差
がみられる。
中核の古墳の被葬者はもちろん、小規模墳においても貴重な副葬品をもつことが知られている。
(橿原市教育委員会 案内板より)
新沢千塚とは、標高約210mの貝吹山から西・北方に舌(ぜつ)状に広がる低丘陵上に立地
する約600基の古墳群をいう。この古墳群の最大の特徴は、群集(ぐんしゅう)形成時期が5
世紀後半(約1,500年前)を中心とすることで、他の古墳群よりほぼ半世紀も早く最盛期を迎えて
いる。このことは埋葬方法にも現れており、ほとんどが木製の棺を用いたもので、横穴式石室を
採用するものは全地域で18基という少なさである。
「史跡 新沢千塚古墳群」とは、そのうち丘陵北端部、県道戸毛-久米線をはさむ通称千塚山
地区に立地する約350基の古墳を指す。4世紀代には既に古墳の築造が見られるものの数は少
なく、群形成は5世紀前半からである。6世紀前半に西の曽我(そが)川に面した丘陵西端に2
基の横穴式石室・前方後円墳が築かれる頃を最盛期とし、6世紀後半まで、約150年間続く。
分布密度は非常に高く、しかも前方後円形・前方後方形・帆立貝形・方形・長方形という特殊
で比較的規模の大きい古墳を中心として、小規模墳とともに一定の範囲内に小集団を形成するこ
とを特色とする。各集団ごとにみると、墳形の組合せに各々特色があり、盛衰時期にも微妙な差
がみられる。
中核の古墳の被葬者はもちろん、小規模墳においても貴重な副葬品をもつことが知られている。
(橿原市教育委員会 案内板より)
日本を代表をする群集墳 。 土饅頭の円墳が約600基もあるんですよ。
新沢千塚古墳群は、欽明天皇以下の飛鳥の古墳が造られるよりも前、4世紀の後半から6世紀の後半に掛けて、約200年間で連続的に造られ、飛鳥の南で桧隈(現在の檜前)辺りを本拠とした
渡来系の東漢氏か、または、大伴氏の葬送地と言われ、第126号(22×16mの長方形)墳の木棺に
納められていた副葬品は、ほとんど舶来品で、遠くサマルカンド辺りで作られたガラス碗も有り、
丘を越えた所の橿原市「千塚資料館」に現在も展示されています。
の長方形の墳丘に木棺が収められていて、その棺の中からガラス椀と皿、四神らしき動物を描いた
漆盤、青銅製の鏡、金製の耳飾、金・銀製指輪、金銅製帯金具、金製方形板(冠飾り)など朝鮮半
島や中国大陸、中近東との関連を伺わせる品物が出土した。
この古墳群のように、古墳が密集して分布するものは群集墳と呼ばれる。新沢千塚古墳群は、群
集墳としては大規模で、良好に保存されているため学術的にも貴重な一群として史跡に指定された。
もう1ヶ月も前のネタでございます。
ちょうど人事異動と桜のシーズンがはじまり、埋もれていたネタでございます。
この日は、ポカポカ陽気で異動での環境変化で疲れ出した頃。。。
あまりの天気のよさで、千塚古墳のベンチで昼寝をしてしまったのを覚えています。
この日はじめて、啄木鳥をみました。 コツコツコツと鳴る方を見上げると、啄木鳥が。。。
標準レンズしか持っていなかったので、ちいさな画像ですが。。。。