惣谷狂言

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 惣谷狂言について

 奥吉野へは三度、惣谷へは再度お邪魔した。最初は昭和三十三年の暮、十二月二十四であったが
、この折、中学校の教室で、万歳・鬼狂言・鐘引・かな法師・壺負・鳥刺・狐釣りの七番を特に演
じていただいた。後の折は昭和四十六年八月十一日で、舞踊家や、早稲田大学大学院の学生たち、
その他大勢で参上し、村の集会所で、狐釣りと鬼狂言の二番を演じていただき、なお、前々年に撮
影した映画があるというので、それをも見せていただいた。壺負・鐘引・鳥刺・舟こぎ狂言・万歳
・かな法師等が映し出された。他に、以前は田植狂言・豆炒り狂言・薯洗い狂言・米搗き狂言・花
折狂言等も演ぜられていたという。
 惣谷狂言はもと、能の間々にではなく、風流踊の間に行われてきた狂言である。即ち、後に歌舞
伎狂言に展開して行くその直前の形を伝えたものである。鳥刺と狐釣りには笛、太鼓の囃子も入る
が、もと三味線も入ったと云えば、そのことは容易に頷けよう。風流踊は室町末から徳川時代初期
にかけて全国的にも流行したものであるが、それが狂言とともに、この奥吉野にも入ってきたので
あった。
 惣谷で盛大に行われた頃は、旧正月廿五日の天神社の「神事初め」に、昼は祭典の後境内で踊の
奉納があり、夜は円満寺内で、村人たちが思い思いの御馳走を持ち寄り、村の役員たちを上座にし
て一同席を定め、酒三献の後、踊と狂言とが交互に、夜おそくまで演ぜられたという。
 惣谷の隣の篠原にも、同じくもと風流踊と狂言とが伝えられていた。同じく正月廿五日の祭りに
、昼は篠原の天神社の神前に踊数番を奉納し、夜は万福寺で、同様に村人たち参集して夜更けるま
で演じた。踊は嫁入り前も娘たちが晴着で踊った。大正の始め頃まで、やはり狂言を交えて演じて
いたのであるが、その後狂言は絶えてしまった。今日記憶されているのは田植狂言(男一人、女五
人)、舟こぎ狂言(一人は舵取り、他六人は擢を持つ)、豆炒り狂言、朝比奈(鬼狂言とも)、鐘
引、米搗(男が棒を持ってかきまわせば、女が搗く)等である。
 惣谷の方は、大正天皇の御大典祝賀に演じたのを最後に、長く中絶していたが、私の訪れた前年
、即ち昭和三十二年十二月に、村史編纂を機とし、その委員方の提唱によって狂言の方だけが復活
されたという。しかし踊もまだ覚えている人が居るというので、三十三年の折に、狂言を見に来て
いた老女に、踊の型だけでもと所望をして、ようやく「伊豆や三島」と「小原木」の一部を踊って
もらった。その踊の歌本も探せば見つかるかも知れないとのことに、捜索をお願いしておいたので
あったが、再訪の折、その本が見つかったとて、大谷 裕氏よりその写しを頂戴した。拝見するに
、それに書誌されていたのは、式参番其壱入波・小鷹踊・式参番其弐向の山・世の中踊・式参番其
参長者踊・牛若踊・近江踊・信濃踊・ひんだ踊・ はらぎ踊・白糸踊・あや踊・京かなこ踊・花か
うて踊・花見踊・長崎踊・俄踊・伊豆や三島踊・をちご踊・御江戸下り踊・まりの踊・梅の古木踊
・あはれたつ田踊の二十三曲。篠原のと出入りがあるが、篠原にない曲も七曲含まれていた。それ
にしてもこれらの踊が復活されないでしまったのは惜しい。しかし篠原に踊が残り、こちらに狂言
の復活を見たのはまことに幸いであった。
 風流踊の間々に、狂言が今も行われている所はそう多くはない。新潟県柏崎市女谷の綾子舞、静
岡県榛原郡徳山の盆の風流、奄美加計呂麻島の諸鈍芝居、同与論島十五夜祭り等に於けるものぐ
らいである。
 これらの狂言には、二通りのものがあることが認められる。一は能狂言に出ているもの。惣谷で
言えば、鬼狂言(朝比奈)、かな法師(骨皮新発意)、壺負(茶壺)、狐釣り(釣狐)などである
。他は地狂言めいたもので、「鐘引」がそれに当り、「万歳」は祝福芸の万歳を、「鳥刺」は囃子
舞の「鳥刺舞」を題材にして狂言化したもので、こちらに属せしめてよい。又、舟こぎ狂言・田植
狂言・豆炒り狂言・薯洗い狂言・米搗き狂言なども、この類であったと思われる。
 「鬼狂言」は世に好まれた曲であったらしく、綾子舞にも、与論島十五夜祭にもあり、「壺負
」は「壺論」と題して岩手県岩手郡旧西山村長山の田植踊の中にも行われていた。「狐釣り」は「
こんかい」として徳山に、又「鐘引」も綾子舞や岐阜県本巣郡根尾村の能郷の能の中にも伝えられ
ている。
 能狂言風のものは、職を失った能の狂言師たちが風流踊の仲間に入り、その踊の間々に演じてき
たものであるが、寛永六年(一六二九)、歌舞伎踊禁止以後は、狂言を主に興行するに至り、能狂
言というよりは地狂言風のものになお一段の工夫を加え、多幕ものも出来、これがやがていわゆる
歌舞伎狂言へと展開するに至る。そしてこの歌舞伎狂言に人形芝居の浄瑠璃脈と人形振とがとり入
れられて、ここに独特の今日の歌舞伎芝居が誕生することになる。
 ともあれ、一時は絶えたものの幸い復活された芸能史上にも重要な、全国的にも僅かに残った風
流踊に伴う狂言の一つとして、また辺陬の地に生活を営んできた祖先たちの情緒のこもるものとし
て、ここに立派に記録が出来上がったのを祝いつつ、なお篠原踊と共に永く伝承されるようにと冀
わざるを得ないのである。
                        文化財保護審議会専門委員 本田安次氏 

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 左の面は、『狐釣狂言』で、右の面が『鬼狂言』で使われます。 

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 神様にお供えされる品々。

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 13時より、神事ははじまります。

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 『オー オーと唱えながら、神様も扉を開けられます。  緊張のひと時です。

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 鳥居の足に付けられています。 どういうものなんでしょう???
 篠原でもよく似たものがありました。

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 神事が終わると、惣谷狂言がはじまります。
 2曲演じられると思ってたんですが、1曲(かなぼうし狂言)でした。
 かなぼうし狂言は、住職・小僧・六平(村人)・七平(村人)・八平(村人)で演じられる
狂言です。かなぼうしとは可愛い子の意味で、自分の小さい子のことを言います。
あらすじは、寺を譲られた小坊主が、ちぐはぐな客あしらいを繰り返すお話です。

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惣谷狂言の奉納を終えると御供撒きが始まります。子供達はしっかりスーパーのレジ袋を持参。
アワやキビのモチに、福を授かる祝い紅モチがあり、福が書かれた餅の中には。。。。。
餅がなくなるとお菓子屋、カップヌードルなども撒かれていました。
私も。。。。ちゃーんと『福』いただいちゃいました。

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 狂言が終わると、地元の子供達に舞台の上に飾られた『餅花(もちばな)』を配ります。
 山畑の豊作を祝うもちばなは、家の軒先に挿しておくとよいらしいです。

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 十津川と五條の境、山奥に点在する集落のひとつにが惣谷です。毎年1月25日に惣谷狂言
保存会の方々が、天神社の神事初めに惣谷狂言を演じます。さらに奥に入ると篠原の集落があ
り、同一日に篠原踊りが奉納されます。この2つの行事は毎年交互に午前、午後の時間帯で入
れ替わり行われるので、一度に両方の行事を見ることができます。
 惣谷狂言は十年ぐらい前には神社前に筵を敷いた舞台で行われていましたが、今は舞台小屋
がつくられそこで演じられています。
 明治後半に一旦廃絶していましたが、保存会を立ち上げ、昭和34年に県の無形民俗文化財
指定を期に復活されました。
 もともとは10数曲ありましが、現在演じられているのは「万才」「鳥刺狂言」「鐘引狂言
「鬼狂言」「狐釣狂言」「かなぼうし狂言」「壷負狂言」「舟こぎ狂言」の8曲のみとなって
います。



撮影日  2010年1月25日(月) 13時~14時頃
所在地  五條市大塔町惣谷 天神社
機材   EOS-40D EF-S17-85mm F4-5.6 IS USM / デジタルⅩ EF-S10-22mm F3.5-4.5 USM