国史跡・山田寺跡
山田寺
蘇我倉山田石川麻呂がここで自害したとある。
蘇我倉山田石川麻呂は蘇我氏一族であったが、入鹿とは敵対し大化改新(乙巳の変)では
娘婿の中大兄皇子に加担した。その石川麻呂が641年に造営を始めたのが山田寺である。
その後、孝徳朝では右大臣の要職に就いたが、異母弟蘇我日向の讒言により謀叛の疑いを
かけられ、649年に蘇我倉山田石川麻呂はこの寺で自ら果てた。
無実を知った中大兄皇子は深く悔いたと『日本書紀』は記している。
やがてその疑いも晴れ、娘である天智妃遠智娘やその娘鵜野讃良皇女により、この寺は着工
から45年を経てようやく完成する。
ここで発掘された回廊連子窓は、飛鳥資料館に展示されている。法隆寺よりも半世紀も古い
日本最古の木造建造物である。
かつての本尊、薬師如来は興福寺へと移り、今は仏頭を残すのみである。
自身は謀叛の疑いで失脚したとはいえ、その娘たちは後世に重要な役割を果たしている。
当時の山田寺
【現地説明板より】 山田寺は、右大臣蘇我倉山田石川麻呂が発願した、飛鳥時代を代表する寺院の一つです。 記録によれば六四一年に着工し二年後には金堂が完成したものの、六四九年に石川麻呂が 政争で自殺したため造営は中断しました。その後、本格的に造営が再開され676年に塔 が完成。六八五年には現在の興福寺に仏頭が残る本尊丈六仏の開眼供養が行われました。 一九七六年以降の発掘調査では、東西118mの寺域に南門・中門・塔・金堂・講堂を 囲む伽藍配置であることが明らかになりました。また、東面回廊が倒壊したままの状態で 見つかるなど飛鳥時代の建築様式を知る上で貴重な発見があいつぎました。
金堂と礼拝石
【現地説明板より】 山田寺の跡には、建物の基壇や礎石が地上に残っており、発掘調査をする前から塔の北に 金堂があったと考えられていました。発掘の結果、金堂の基壇は東西21.6m、南北 18.4m、高さ約2mの規模で、周囲には板石を敷き詰めた犬走りがめぐっていたことが わかりました。さらに塔と金堂を結ぶ参道の中ほどでは石灯篭の台石が、また金堂の南面中央 では犬走りに接して東西2.4m、南北1.2mの『礼拝石』と考えられる板石が見つかり ました。礼拝石を金堂の前面に据えるのはめずらしく、ここに原寸大に復元して展示します。
東面回廊
【現地説明板より】 山田寺では塔と金堂のある中心区画の四方を回廊で囲んでいました。東面回廊の発掘調査 では、建物全体が屋根瓦もろとも西向きに倒れた状態で見つかりました。蓮弁を彫刻した 礎石や基壇の縁石がほぼ完全に残っており、東面回廊は南北二十三間、86.9m、基壇幅 6.4mの規模であったことがわかりました。また柱や連子窓など多くの建築部材や表面に 白土を塗った壁土が残っており、古代の建築技術を知る貴重な史料となりました。十三間・ 十四間・十五間目の部材はとくによく残っていたことから、保存処理をほどこしたうえ、元 のかたちに組み上げ、飛鳥資料館で展示しています。
宝蔵
【現地説明板より】 この場所の発掘調査で四個四列に並んだ礎石が見つかり、高床の蔵のような建物があった ことがわかりました。また、経軸や仏具を多く含む多くの遺物が出土したことから、この建物 は仏具等を納める宝蔵であったと考えています。
撮影日 2007年7月24日(火)