在原寺跡と在原神社
和州在原寺の縁起によるとこの東の石上領平尾山に、光明皇后が開かれた補陀落山観音院本光明寺があり、本尊は聖武天皇御縁仏の十一面観音であった。第51代平城天皇の御子阿保親王はこの観音を信心して業平が生れたと称し、このため親王は承和2年(835)今の地に移し、 本光明山補陀落院在原寺と称した。「寛文寺社記」によると元慶4年(880)5月28日業平が病没したので邸を寺にしたとある。
上街道から在原神社の入口に、在原寺という標石が建っているが、その裏面に在原神社と刻まれているのはその事情を物語っている。
中将在原業平は、有名な歌人の一人であり、また絶世の美男子であったといわれる。業平の作という伊勢物語にのせられた歌物語の「筒井筒ゐづつにかけしまろがたけ過ぎにけらしな妹見ざるまに」の歌や、謡曲の「井筒」にちなんだ筒井筒のほか一むらの薄(すすき)、石標などにその名残を留めている。
【天理市HPより抜粋】
【天理市HPより抜粋】
在原寺跡と在原神社
祭神 阿保親王・在原業平
在原神社が鎮座するこの地には、明治9(1876)年まで「在原寺」という寺院があり、本道・庫裏・楼門などが並んでいました。在原寺の創立は承知2(835)年とも、元慶4(880)年とも言われ、後者の説を探る「寛文社寺記」には、在原業平の病疫後にその邸を寺としたとの記述があります。
在原寺の井筒を「伊勢物語」にみえる「筒井筒」の挿話の舞台とする伝承もここから生まれたと考えられます。
祭神 阿保親王・在原業平
在原神社が鎮座するこの地には、明治9(1876)年まで「在原寺」という寺院があり、本道・庫裏・楼門などが並んでいました。在原寺の創立は承知2(835)年とも、元慶4(880)年とも言われ、後者の説を探る「寛文社寺記」には、在原業平の病疫後にその邸を寺としたとの記述があります。
在原寺の井筒を「伊勢物語」にみえる「筒井筒」の挿話の舞台とする伝承もここから生まれたと考えられます。
在原業平(825~880)は平安前期を代表する歌人で六歌仙にも選ばれています。従四位下右近衛権中将まで進み、在五中将とも呼ばれました。古今和歌集仮名序に「その心あまりてことばたらず」とあり情熱的な和歌を得意とした一方、漢詩文は不得手だったようです。
阿保親王は平城天皇の皇子で業平の父親にあたり、承知2年創立説では在原寺の創立者ともされ、現在の在原神社にも業平とともに祀られています。
阿保親王は平城天皇の皇子で業平の父親にあたり、承知2年創立説では在原寺の創立者ともされ、現在の在原神社にも業平とともに祀られています。
業平の妻の母(紀有常妻)が祀られています。
本堂は大和郡山市若槻の西融寺に移されて、廃寺となった。
筒井筒
在原業平は平城帝(第五一代)の皇子阿保親王の五男で、兄の行平と共に在原性を名のって臣籍に入り右近衛中将となり歌人としても知られています。女性遍歴も多彩で「伊勢物語」のヒーローとされています。 その業平と、昔契った井筒の女(実は紀有常の娘)が現れ、業平との在りし日の交情を物るのが謡曲「井筒」です。
謡曲の舞台となっている「大和国石上の在原寺の旧跡」が当所だといわれ、曲にゆかりの深い井筒の井の跡もかすかに残っています。
曲名の井筒の井戸の地上の部分を木や石で囲んだもののことで、本来は円型ですが方形のものもあります。紀有常の娘が幼時、背丈をこの井筒で業平と計りあったといわれます。
謡曲史跡保存会
歌碑
伊勢物語の「筒井筒ゐづつにかけしまろがたけ過ぎにけらしな妹見ざるまに」と刻まれています。
一本の桜の木から、わずかに桜が咲きだしていましたよ。
奈良市内の氷室神社のしだれ桜を見に行った帰りに、ブロ友の銀狐さんの記事を思い出し寄ってみまし
た。 西名阪天理ICの入口にあり、何度も通る場所なのに神社があることすら知りませんでした。
(銀さんには情報料の請求が来てますが、からだで返そうと思ってます。)
業平は伊勢物語で色男のイメージが強いですよね。
いつの時代も色男は女性にマメだったんだなぁ~と、業平河内通いの恋の道をみてつくづく思いまし
た。