題目立

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上深川町八柱神社】
 上深川町は、奈良市東部の緑豊かな大和高原の一画にあります。
 上深川は、古くは興福寺・春日社の荘園「深川庄」に属する集落であったと考えられ、元和5年
(1620)からは津藩の領地となりました。同藩の記録『宗国史』に、戸数35、人口164人とあ
ります。
 近代以降は、明治22年(1889)に山辺郡針ヶ別所村に属し、昭和30年(1955)に都介野村と
針ヶ別所村の合併により都祁村となります。そして平成17年(2005)に奈良市との合併により奈
良市上深川町となりました。茶・蔬菜など農産物の生産が盛んな地域です。
 八柱神社は、集落の中央付近の字堂ノ坂に所在します。
 祭神は高御産日神・神座日神・玉積日神・足産日神事代主神大宮売神生産日神御食津神
の八神を祭るとされています。古くは八王子社と称し、末社厳島神社・八坂神社があります。
 また神社の西隣りには、元薬寺(古義真言宗)があります。
                            【現地パンフレットより抜粋】 
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【題目立の内容】
 題目立は源平の武将を題材とした演目を、出演者が登場人物ごとに台詞を分担して、独特の抑揚
をつけて語る芸能です。
 出演するのは上深川の17才を中心とした青年たちです。上深川では17才になると神社の伝統
的な祭祀組織である宮座(みやざ)に加入する慣わしがあり、座入りすることにより、はじめて一
人前の地域の成員として認められると考えられてきました。題目立は座入りする年齢に達した青年
による氏神への奉納芸能であることから、成人儀礼の性格をもつ行事と考えられます。多くの場合、
17才の者だけでは人数が足りず、それに近い年上の者が一緒に演じます。
 上深川には「厳島」(いつくしま)「大仏供養」(だいぶつくよう)「石橋山」(いしばしやま
)の3曲の詞章(ししょう)が伝わっています。このうち上演されるのは「厳島」か「大仏供養」
で、「厳島」は8人、「大仏供養」は9人で演じます。またゾオク(造宮)といって八柱神社の社
殿の建て替えや修理が行われると、その年から3年は「厳島」を奉納する慣わしになっています。
 宵宮祭の夜、出演者は楽屋にしている神社西隣りの元薬寺(がんやくじ)を出て、長老の先導で
「みちびき」を謡いながら、神社本殿下にある参籠所前に設けられた舞台に向かいます。ソウ(素
襖)を着て立烏帽子(たてえぼし)をかぶり、扇を襟首に挿し、弓を手にするという出立ちで(役
により若干相違があります)、舞台の周りの所定の位置につきます。
 参籠所にいる呼び出し役が、「一番 清盛」と台詞の順番と役名を呼ぶと、出演者はそれに応じ
て、独特の抑揚をつけて、まず最初に「我はこれ」とか「そもそもこれは」という言い回しで始ま
る文句で自らの名を名乗ってから、台詞を語っていきます。
 「厳島」では清盛が弁才天から長刀を授かる場面がありますが、基本的に所作はほとんどなく、
出演者は所定の位置で静かに物語りを語り継いでいきます。この語りが題目立の大きな特色です。
 曲の最後近くになると「フショ舞」が舞われます。出演者全員で「よろこび歌」を謡うなか、一
人が舞台中央に進み出て反り返るようにして扇をかかげ、強い調子で足を踏みながら舞台を一回り
します。短いものですが、それまでの静かな雰囲気から一転した動作で印象的な舞いです。
 最後に「入句」を唱和し、再び長老の先導で「みちびき」を謡いながら退場します。

【歴史】
 題目立がいつごろ始まったかは定かではありません。興福寺の僧侶の記した『多聞院日記』「夢
幻記」天正4年(1576)ごろの記述に「題目立トテ田舎ノ宮ウツシノ時、昔ノ名仁ノ出立ニテ名乗」
とあり、上深川近くの丹生神社(奈良市丹生町)にも16世紀末から17世紀初めの年紀のある詞
章の一部が残ります。また奈良市田原地区の無足人の日記にも、元禄5年(1692)や宝永3年(17
06)に山添村の峯寺や的野で題目立が演じられたことが記されています。
 上深川には享保18年(1733)に、寛永元年(1624)ごろの詞章を書写し直した詞章本が残され
ていて、近世初期にはこの地で題目立が行われていたことがわかります。
 題目立の名称は、1603年刊行の『日葡辞書』に「ダイモク」を「ナヲアラハス」と説明して
いることなどから、出演者が名を名乗り、それから順次、条目を述べ立てるように物語を語ってい
くことからきた名称ではないかと推測されます。

【特色】
 出演者の役は決まっていますが、簡素な舞台装置と簡単な採り物を持つだけで、仮装もせず所作
も僅かで、舞台の所定の位置で各々の台詞を語っていくという内容は、芸能史の研究者から「語り
ものが舞台化した初期の形を伝えている」と評され、中世の芸能の姿をうかがわせるものとして高
く評価されています。現在、題目立は上深川にしか伝承されておらず、そういう点でも貴重です。
 またこれが観客よりも、あくまで氏神への奉納芸能としての形式を保っており、あわせて青年た
ちの成人儀礼の意味合いをもち、地域の人たちの支えを受けて上演されることも、この芸能の民俗
的な特色として重要です。 
                            【現地パンフレットより抜粋】 
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 題目立が行われる場所です。ほとんどが語りものですので、この狭い舞台で十分でした。

厳島】                    【大仏供養】
        <本殿>                    <本殿> 
       弁財天(屋形)            

くらんど(教経)      つねもり(経盛)  泉の小次郎         井原左衛門

                        佐々木四郎          梶原平蔵

左大臣(宗盛)       ほんさんみ(重衡) 北条時政           和田吉盛

     神主  清盛  小松重盛                 畠山  頼朝  景清     

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 弁財天です。 今年は『厳島』が演じられました。

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 題目立 = 映っているのは左大臣(宗盛)です。 『厳島』では二十七番まで語られます。

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【大意】
 平清盛が名乗り、保元・平治の乱に打ち勝って太政大臣の官を極めたことは、厳島明神のおか
げであるので供養をする旨を述べる(一番)。 続いて平家一門の者が順々に名乗り、厳島明神
を称え(二~七番)、厳島明神への供養や華麗荘厳な様子を賛仰する言葉が続く。(八~十七番
)やがて清盛が厳島明神の宝物の「節刀」(長刀)や「をもかげ」(扇)を拝みたいと願ったと
ころ(十八番)、厳島の弁財天が登場し、天下を治める長刀として清盛に「節刀」を授け(二十
二~二十四番)、清盛達はその喜びを謡う(二十五・二十六番)。そのあと「ふしょ舞」があり
、入り句を謡って終わる。 
                           【現地パンフレットより抜粋】 

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 二十七番まで語られると、退場していきます。


 今年、ユネスコ無形文化遺産に登録されました。 報道関係の方、一般の方は例年より多かっ
たのではないでしょうか。 17時頃現地に着きましたが勝手がわからず。
 18時頃、舞台のまわりに御座が敷かれたのですかさずいい場所をいただくことができました。
これも日頃の行い???
 奈良市と言っても、山奥。日が暮れると気温もぐっと下がります。
『題目立』は19時にはじまり、21時に終了しました。

 室町時代から続くこの行事。 これからも引き継いでもらいたいものです。


■撮影日 2009年10月12日(月)
■所在地 奈良市上深川 八柱神社境内
■機材  EOS-40D EF-S17-85mm F4-5.6 IS USM