東大寺周辺の散策

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東大寺
東大寺は、奈良県奈良市司町にある華厳宗大本山仏教寺院である。現別当(住職)は219世・上野道善
金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)ともいい、奈良時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である。「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊とし、開山(初代別当)は良弁僧正(ろうべんそうじょう)である[1]
奈良時代には中心堂宇の大仏殿(金堂)のほか、東西2つの七重塔(推定高さ約100メートル)を含む大伽藍が整備されたが、中世以降、2度の兵火で多くの建物を焼失した。現存する大仏は、台座などの一部に当初の部分を残すのみであり、現存する大仏殿は江戸時代、18世紀初頭の再建で、創建当時の堂に比べ、間口が3分の2に縮小されている。「大仏さん」の寺として、古代から現代に至るまで広い信仰を集め、日本の文化に多大な影響を与えてきた寺院であり、聖武天皇が当時の日本の60余か国に建立させた国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置づけられた。
東大寺1998年古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。
 
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 東大寺南大門前は露店や土産物屋が立ち並び、休日ともなると大勢の観光客で賑わいます。
 
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【南大門】
国宝平安時代の応和2年(962年)8月に台風で倒壊後、鎌倉時代正治元年(1199年)に復興されたもの。東大寺中興の祖である俊乗坊重源が中国・から伝えた建築様式といわれる大仏様(だいぶつよう、天竺様・てんじくようともいう)を採用した建築として著名である。大仏様の特色は、と呼ばれる、柱を貫通する水平材を多用して構造を堅固にしていること、天井を張らずに構造材をそのまま見せて装飾としていることなどが挙げられる。門内左右には金剛力士(仁王)像と石造獅子1対(重文)を安置する。1層目の屋根の上には「大華厳寺」と書かれた扁額が掲げられている。これは古い記録にそのような扁額があったと書かれていたことに基づき、2006年10月10日に行われた「重源上人八百年御遠忌法要」にあわせて新調されたものである。
 
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  南大門の中央に立ち、天井を見上げてみると。。。。。
 
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【木造金剛力士立像(国宝)】
高さ8.4メートルの巨大な木像。門の向かって右に吽形(うんぎょう、口を閉じた像)、左に阿形(あぎょう、口を開いた像)を安置する。これは一般的な仁王像の安置方法とは左右逆である。1988年から1993年にかけて造像以来初めての解体修理が実施され、像内からは多数の納入品や墨書が発見された。それによると阿形像は大仏師運慶および快慶が小仏師13人を率いて造り、吽形像は大仏師定覚および湛慶が小仏師12人とともに造ったものである。これは、「阿形像は快慶、吽形像は運慶が中心になって造った」とする従前の通説とは若干異なっているが、運慶が制作現場全体の総指揮に当たっていたとみて大過ない。
 
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戒壇
出家者が受戒(正規の僧となるための戒律を授けられる)するための施設として、天平勝宝7歳(755年)に鑑真和上を招いて創建された。現在の建物は享保18年(1733年)の再建である。内部には中央に法華経見宝塔品(けんほうとうほん)の所説に基づく宝塔があり、その周囲を四天王像が守っている。
 
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【指図堂】
大仏殿の西にある。法然の画像を祀る堂で、建物は江戸時代末期のものである。鎌倉時代、大仏の復興に携わった俊乗房重源は、法然の推挙で大仏復興の大勧進職となった。この堂に復興大仏殿の指図(設計図)を納めたことから指図堂の名がついたという。もとこの堂にあった木造釈迦如来坐像(鎌倉時代重要文化財)は奈良国立博物館に寄託されている。
 
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【伽藍の概要】
東大寺の境内は平城京の外京の東端を区切る東七坊大路(現国道169号)を西端とし、西南部は興福寺の境内と接していた。
南大門を入って参道を進むと、正面に中門(南中門)、その先に大仏殿(正式には「金堂」)がある。中門からは東西に回廊が伸び、大仏殿の左右に達している。回廊は、現在は大仏殿の南側にしかないが、当初は北側にも回廊があり、回廊北面の中央には「北中門」があった。
南大門から中門への参道の東側には東大寺の本坊があり、反対の西側には東大寺福祉療育病院などがある。 大仏殿の東方には俊乗堂、行基堂、念仏堂、鐘楼などがあり、そのさらに東方の山麓は「上院」(じょういん)と呼ばれる地区で、開山堂、三昧堂(四月堂)、二月堂法華堂(三月堂)などがあり、その南には鎮守の手向山八幡宮東大寺とは別法人)がある。
大仏殿の西方には指図堂(さしずどう)、勧進所、戒壇院などがある。大仏殿の北方、やや西寄りには正倉院の校倉造宝庫と鉄筋コンクリート造の東宝庫・西宝庫がある。なお、正倉院の建物と宝物は国有財産で、宮内庁正倉院事務所が管理している。境内西北端には奈良時代の遺構である転害門(てがいもん)がある。
かつてはこれら以外にも多くの堂塔が存在した。大仏殿の北には講堂と僧坊があり。これらの東には食堂(じきどう)があった。僧坊は講堂の北・東・西の3面にコの字形に設けられたので「三面僧坊」と称した。大仏殿の手前の東西には東塔・西塔(いずれも七重塔)があった。これらの塔は、周囲を回廊で囲まれ、回廊の東西南北4か所に門を設けた「塔院」を形成しており、他寺に例をみない規模のものであった。西の東七坊大路に面しては3つの門が開かれていたが、このうち北の門のみが現存する(前述の転害門)。
毎年1月1日の0時から8時までの間、中門(重要文化財)が開かれ、金堂(大仏殿・国宝)内に無料で入堂できる(通常入堂料:大人500円・小人300円)。参拝は午前7時半から受け付けている。
 
 
 修学旅行の定番中の定番! 奈良の大仏が鎮座するのがここ東大寺です。
 私は小学校の遠足で来た記憶があります。 柱に開けられた穴を潜ったことだけは鮮明に覚えている
んですよね。。。。。。  次は高校1年のお正月かな。。。。  クラスメイトの女の子と。
 その時の記憶は、『彼女と奈良公園に来ると別れるんだって!』という噂を聞かされたことを覚えています。それ以降は奈良にいながら入場することはなかったとは。。。。
 ブログをはじめて、年に1度は来るようになりましたが。 今回はパス!
 
 今でもこのスケールの大きさに感動するのに、当時はもっと大きかったし、まわりに大きな建物がなかった時代。 当時この光景を見た人々は、腰を抜かすぐらいの驚きがあったんでしょうね。
 
 
      ※ 解説は、フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』より転記しています。
 
 
撮影日  2010年4月25日(日)