中尾山古墳
上平田と下平田集落中間の丘陵上に立地し、高松塚古墳の所在する丘陵よりをひだてた北側丘陵にあたる。『大和志』に、「檜前安古岡ノ上陵文武天皇在平田村西俗呼中尾石墓」と記載されているように文武陵と考えられたこともあり、石墓の名にふさわしく、見事に礫石で墳丘が築成されていたようである。
墳丘は、直径約22メートル、高さ3.2メートル程度の円墳で、これらの封土の周辺には、現在でも塊石が散乱しているのに気が付く。
明治14年頃、茸石や大きな石材は庭石や建築用道路石垣などの用材として、売却破壊された由であるが、当初は墳丘基底部に直径45センチ以上の大石を立て並べ、墳丘中段にも同様に囲繞した石があり、その間を小児頭大の河原石で敷き詰めた状態に置かれていた。
そして、これらの立て並べた石は整斉された積み方で、破壊の際も容易に動かず、最初の一個を抜き取ってはじめて他の石を取る事を得たと伝えられている。従来の古墳墳丘表面の茸石や貼石の類よりも、新羅王墓などにみられる外護石的な要素の加味された用法が看取される。
墳丘は、直径約22メートル、高さ3.2メートル程度の円墳で、これらの封土の周辺には、現在でも塊石が散乱しているのに気が付く。
明治14年頃、茸石や大きな石材は庭石や建築用道路石垣などの用材として、売却破壊された由であるが、当初は墳丘基底部に直径45センチ以上の大石を立て並べ、墳丘中段にも同様に囲繞した石があり、その間を小児頭大の河原石で敷き詰めた状態に置かれていた。
そして、これらの立て並べた石は整斉された積み方で、破壊の際も容易に動かず、最初の一個を抜き取ってはじめて他の石を取る事を得たと伝えられている。従来の古墳墳丘表面の茸石や貼石の類よりも、新羅王墓などにみられる外護石的な要素の加味された用法が看取される。
【明日香村公式HPより抜粋】