伝小墾田宮
小墾田宮跡推定地 (おわりだのみやあと)
目印は田んぼの真中の一本の木、それしかない・・・・でも、それがいいんですよね。
場所は、雷の丘から西側すぐのところにあり、橿原神宮前駅に向かう道沿い?にあります。
田植えのシーズンになると畝傍山をバックに、この木を入れて絶景の夕陽ポイントであり多くのカメラマンが空が焼けるのを待っていますよ。
場所は、雷の丘から西側すぐのところにあり、橿原神宮前駅に向かう道沿い?にあります。
田植えのシーズンになると畝傍山をバックに、この木を入れて絶景の夕陽ポイントであり多くのカメラマンが空が焼けるのを待っていますよ。
「古宮土壇」と呼ばれるここの周辺が、小墾田宮の推定地となっています。
決定的な証拠はありませんが、7世紀初め頃の石敷き、柱跡などがこの一帯から出土しています。
推古天皇が25年間過ごした宮と伝えられたいます。
書紀の記述からも伺えるとおり、小墾田宮はそれなりの規模であった可能性が高く、 隣接する雷 (いかずち)からは「小治田宮」と書かれた墨書土器が発掘されています。
1970年に行なわれた発掘では、川原石を組んで作った溝、小池を持つ庭園、石敷き、掘立柱建物跡などが出土し、小墾田宮を構成する宮殿遺構の一部とみられています。
明治時代には、ここから金銅製の壷(四環壷)が出土しています。
決定的な証拠はありませんが、7世紀初め頃の石敷き、柱跡などがこの一帯から出土しています。
推古天皇が25年間過ごした宮と伝えられたいます。
書紀の記述からも伺えるとおり、小墾田宮はそれなりの規模であった可能性が高く、 隣接する雷 (いかずち)からは「小治田宮」と書かれた墨書土器が発掘されています。
1970年に行なわれた発掘では、川原石を組んで作った溝、小池を持つ庭園、石敷き、掘立柱建物跡などが出土し、小墾田宮を構成する宮殿遺構の一部とみられています。
明治時代には、ここから金銅製の壷(四環壷)が出土しています。
推古11年(603)
10月 豊浦宮から小墾田宮へ遷る。11月 太子が秦河勝(はたのかわかつ)に仏像を与える。
河勝は仏像を頂いて蜂岡寺(今の広隆寺)を造る。
12月 はじめて冠位を施行する。
推古12年(604)
4月 憲法十七条を制定する。9月 朝廷の礼法を改める。
推古16年(608)
4月 小野妹子が隋より帰朝。隋使裴世清と下客(しもべ)十二人を伴う。9月 隋使たちの帰国に際し、再び小野妹子を遣隋使として派遣する。
このとき留学僧・留学生8人が同行する。
推古17年(609)
4月 百済僧および俗人ら八十余名を乗せた船が肥後国葦北に漂着、翌月一行を百済に送り
つけるが、修道者十一人が在留を希望したので法興寺に住まわせる。
9月 小野妹子が隋から帰国する。 推古20年(612)
2月 堅塩姫(きたしひめ)を檜隈大陵に改葬する。5月 薬猟を催す。この年、百済から路子工(みちこのたくみ)が来朝し、須弥山や呉橋を宮の
庭に造る。 また、味摩之(みまし)が来朝し、伎楽(くれがく)を伝える。
推古32年(624)
4月 一人の僧が斧で祖父を打った事件を機に、僧正・僧都を任命する。9月 寺および僧尼を調査して記録する(このとき寺の数46,僧816人,尼569人)。
10月 蘇我馬子、葛城県の割譲を請うが、天皇これを許さず。